ロシア旅行(ボルガの船旅中心)とその後知った事

1.はじめに ロシアは近くて遠い国だった。高校迄新潟で育ったので対岸のナホトカはいずれ行けるだろうと思っていたが縁が遠く、効率の悪い共産主義が残れる時代でも無かったしロシア国家破産危機もあり、興味が湧かなかった。66歳の最近になってようやく天然ガスを巡るオルガルヒの活動やプーチン率いるロシアの利権拡大・興隆ぶりを聞き、一度見てみたくなった。今回はモスクワからサンクトペテルブルグまで、途中キジ島等に立ち寄り乍らのボルガ川下り1800kmの旅を選び楽しむ事が出来た。折しもウクライナ(ロシアにとって中心的存在の一つだった旧ソ連の国。国家形成期はキエフの方が中心だった)を巡り、一極覇権の崩壊(ドル暴落)を食い止める為軍事力でロシアを抑えつけ逆に強化(ドル防衛)したい米国とこれに対抗してもう一方の極BRICSの連携を強化拡大させようというロシアとの大戦直前の軍事・経済の角逐が展開されているので、ロシア国内にも緊張が漂っているのかと思っていた。しかし少なくとも一観光客の眼から見る限りロシアは全くのんびりしたもので、道中ずっとどこでも観光客で賑わっていてかなり拍子抜けだった。お陰でロシアの豊かな自然・文化・芸術を堪能して充実した心が潤う旅を味わう事が出来た。今回ロシアの現状を見て感じた様々な事を、ロシア関連の世界史の基礎知識部分を確認し照らし合わせながら纏めておきたい。 2.旅の概要 (1)スケジュールと内容のあらまし 旅程は2014.6.20~7.2迄の13日間。テーマは「ショーロホフ号で行く世界遺産キジ島とロシアの母なる大河ボルガの船旅」であった。モスクワやサンクトペテルブルグ観光にも最低限必要な日程は確保されており、見るべき所は観て来れたと思う。 ・大韓航空でソウル経由モスクワへ。空港の入国審査は行列は長かったが緩かった。市内で3泊(ホテル1泊・船中2泊)し観光した後、夕刻ボルガ川クルーズに出発した。ドイツ建造の船で乗客は200名余、日本人21名を除き大半がドイツ人だった。 ・ボルガ川は両岸とも白樺やアカマツ等がずっと延々とほぼ同じ高さで綺麗に立ち並び、偶に森の中にダーチャと呼ばれる別荘や教会が点在して見えていた。途中ウグリチ、ヤロスラビ、ゴリツィー、キジ島、マンドロギーに立ち寄り観光ながら、川下りを存分に楽しんだ。船室は狭くシャワーと手洗いが一緒でちょっと驚いたが、慣れれば特段問題も無く、食事も昼夜ともコースメニューでおいしかったのでつい食べ過ぎ・飲み過ぎがちになった。船旅なので日本人の同行の方々から多くの旅行や人生の体験談を聞くことが出来て楽しかった。又イベントでドイツ人乗客との歌の交歓会で俄か合唱団員になり「百万本のバラ」や「故郷」を合唱したり折り紙を通じた交流の企画もあって、原生林の中をボッーとする暇もあまりないまま開始7日目の朝にサンクトペテルブルグに到着した。 ・サンクトぺテルブルグではそのまま船中で2泊した。お目当てのエルミタージュ美術館やピョートル宮殿等の観光はいずれも期待に違わぬものであった。サンクトペテルブルク国際白夜マラソン?に出くわしたせいもあり、バスがかなりの渋滞に巻き込まれたしどこも観光客の行列が凄かった。本当に満足しきって3日目の夜、再び大韓航空でソウル経由関空へ帰国した。 (2)旅の見所 <モスクワ観光> ・初日 ロシアの歴史や文化の原点となった郊外の都市群「黄金の環」の代表格セルギエフ・ボザードへ。ロシア正教最大の聖地で世界遺産のトロイツェ・セルギエフ大修道院(モンゴルが支配した14世紀初めに建立)は、モンゴル支配に対抗するロシア諸公のまとめ役を果たした所。ロシアで最も尊敬される聖人セルギイが整備されたモスクワで無く、原生林でクマ・狼や冬は零下20~30度の中で貧苦に耐えながら聖書の教えをひたむきに求めて信仰生活を送った所だ。その聖セルギイの祝福を受けたモスクワ大公ドミトリー将軍率いるロシア軍がモンゴルに勝利した。ロシア軍の勝利を神に感謝しイワン雷帝が建て、代々の皇帝が戴冠式を行ったという白亜のウスペンスキー聖堂等を見学した。今回「黄金の環」の言葉自体も初めて知ったが、それぞれがロシア諸公国の首都として、最終的にモスクワが中心になっていった源流となった地域の事だったのだ。ソ連崩壊後、大修道院、モスクワ神学大学、聖歌隊指揮者、イコン画家等正教文化の中心地となっている。 ・2日目 雀ガ丘から市街を一望後、チャイコフスキーが「白鳥の湖」を構想したという湖の近くのノボディヴィチ女子修道院や、エリツインやゴルバチョフの妻等の様々なレリーフの墓がある隣接の墓地を見たり、多くの壁画で有名な地下鉄(最近事故があったようだ)に入場して大混雑の中を皆ではぐれない様にしながらキエフ駅(ロシアは行き先が駅名になっている)等の多くの壁画を鑑賞した。又、1856年に豪商トレチャコフが創設したイコン画等の古代ロシア民族画を集めたトレチャコフ美術館を見た後、広大な赤(美しいの意あり)の広場を聖ワシリー寺院等を眺めながらゆっくり散策した。ここがソビエト時代以降毎年11月7日に革命記念軍事パレードが開かれている所なのか。 ・3日目 雨の日に時間指定でクレムリン(城塞)見学。12世紀に木造の要塞で始まった。15~16世紀に現在の形になり、この時点でロシア正教の総本山ウスペンスキー聖堂等を建立した。プーチンの大統領府があるとは思えない程警備が手薄のように見えた。ロシア最古の博物館である「武器庫博物館」には1613年~1917年迄続いたロシア最後の王朝のロマノフ王朝の宝物等12世紀以来ロシアの皇帝が収集して来た世界の美術工芸品が沢山展示されていた。     <ボルガ川の船旅> ・4日目 古都ウグリチに夕刻着。イワン雷帝の死後流された息子ドミトリー・ナ・クラヴィーの名の付いた聖堂を見学した。 ・5日目 ヤロスラヴリ 2010年に建都1000年を迎えた世界遺産(2005年)「黄金の環」最大の街。15世紀にはボルガ川を伝って、カスピ海、黒海、バルト海、北海を通じる一大交易都市として発展した。13世紀に創建された中世建築の傑作スパソ・プレオブラジェンスキー修道院へ。5千ルーブル札にある小礼拝堂を見て、修道院内の庭では鐘を使った生演奏を聴き、教会内で聖歌と民謡のアカペラを聴く。実力も音響も素晴らしかった。預言者イリヤ聖堂前を行く人。この聖堂はフレスコ画で名高くユネスコの世界遺産に登録されている。 ・6日目 ゴリツィー キリルベロゼスキー修道院を見学。夜10時でも明るい白夜は初体験です。 ・7日目 キジ島 欧州第2の湖オネガ湖に浮かぶ緑の世界遺産キジ島散策。幅500m、長さ7キロの細長い小島だ。木造のプレオプラジェンスカヤ教会は修復中だったが、緑の小道を歩みながら徐々に近づくと想像を上回る大きさを持った美しい教会だった。特に木製で作られた22個の玉ねぎと言われる部分はじっと見上げ続けても見飽きない美しい曲線をなしていた。補強工事中だったが中のイコノスタシスは鮮明で、中には曼荼羅風のものもあって驚いた.売店のお嬢さんは純朴そのもの。他の冬の教会や、ベル・タワー等の木造建築群も自然にマッチして美しく、先住民にノブゴロドからの移住者がキリスト教を伝えロシア正教会の教会を建設したのだ。ボルガ川の北のはずれなので流石にここまでは争乱が及ばなかったので残ったのであろうこの島の風景と聴いたベルの音は心と耳に深く刻まれて残っています。 ・8日目 マンドロギ-- 素朴な森に生産者自身が直売する民芸品店が多くあり良い土産を沢山見つけた。又ウオッカ博物館、馬術ショ-、民族音楽ショー等を楽しみながらのバーベキューは格別の味であった。 <サンクトペテルブルグ観光> ・9日目 聖ニコライ聖堂を撮影し、エミルタージュ美術館「冬の宮殿」へ。大混雑で並んで順番を待ちやっと印象派のゴッホ、モネ、シスレー等や、レンブラント、ダ・ヴィンチの作品のみを中国人観光客の行列割り込みの酷さに憤慨しながら慌ただしく見学できた。帰国後美術館で買った「エルミタージュ」を眺めて見たが、見ていないものがあまりにも多く、いずれ又ゆっくり鑑賞したいものだ。その後水中翼船で郊外のピョートル夏の宮殿で大噴水を見た。夜はパレスシアターで本場のバレエ「白鳥の湖」を鑑賞出来た。時代の変化からか原作の悲劇をハッピーエンドに変えていた。 ・10日目 翌日はエカテリーナ宮殿へ。金箔の大きな部屋が続き勢威が窺えたが、順番待ちの観光客でごった返し、ゆっくりは見れなかった。1960年代に戦争の破壊から修復されたという豪華な大理石の階段からレリーフを見ながら入った。陶器のコレクションや美術品は戦乱を避けウラル地方に逃れていたという。「明るい回廊」の雰囲気を味わい大広間天井の「ロシアの勝利」も見上げ豪華な「食事の間」を見ながら行った「黄金のアンフィラーダ(続き部屋)」のハイライトの「琥珀の間」は写真撮影禁止だったが天井から壁まで美しい琥珀で埋め尽くされていた。「緑の食堂」も一度はこんな場所で食事をして見たいと思わせる空間だった。まだまだキリが無いので一度は行って見て下さい。今回は行けなかったエカテリーナ公園等も再訪して見たいものです。午後はイサク寺院に。帰途にネギ坊主が派手な「血の上の教会」を撮影した。夜は船内で有志のカクテル&ウオッカパーティーで名残りを惜しんだ。 ・11日目 18世紀にスウェーデンの攻撃から守る為作られたというペテロパブロフスク要塞を見学。中央の大聖堂にはピョートル大帝やエカテリーナ2世等の皇帝達の棺が華やかに並べられていた(お骨は地下との事)。端の方にはレーニンやドストエフスキーを収容した獄もあった。いつかドストエフスキー「罪と罰」の舞台も歩いてみたいものだ。 3.ロシア旅行の感想 (1)ロシア正教の著しい復活盛況ぶり ロシア正教はピョートル1世やソビエトによる受難の時代を経て完全に復活していて大盛況である事を目の当たりにする旅だった。ロシア旅行中毎日のように教会を訪れ、昔から表現様式が殆ど変わらないという美しいイコン画を観て、主要教会では聖歌の素晴らしい合唱を聴く日々が続いた。ソビエト時代の弾圧の跡は殆ど窺えないし、国民の日常生活に横3本のロシア十字架やイコン画が深く根付いているように感じられた。 <ロシア正教の歩み(概要)とロシアの歴史> ・988年  キエフ公国のウラジミール大公が正式にキリスト教を受け入れる。妃の出身国ビザンティン帝国の国教であったギリシャ正教を選んだ。当初はコンスタンティノープル総主教の管轄下だったが、その後ギリシャ正教が次第にロシア独自に発展していく。 ・1236年 キプチャク・ハーン国の侵略が度重なり中心都市キエフは荒廃していった。ウラジミール大公没後は強力な支配者があらわれずモンゴルの襲来を受け支配されたのだ。 ・1345年 モンゴル支配は教会には寛容で、荒野修道院運動でモスクワ郊外にトロイツェ・セルギエフ大修道院が建立される。 ・1453年 ビザンチン帝国が終焉しモスクワ・ロシアが出現した。紋章を双頭の鷲に。1480年にはモスクワ大公イワン3世がモンゴル軍を撃退し250年以上続いた「タタールのくびき」が終りを告げた。 ・1547年 イワン4世(雷帝)がロシア統一し皇帝に。しかしバルト海進出を狙ったがポーランド等との戦いに疲弊しその後も安定せず混乱の時代(スムータ)が続く。 ・1589年 モスクワ府主教が総主教に昇格。ローマ帝国、ビザンティン帝国亡き後モスクワ大公国こそ「世界を支配するキリスト教世界帝国=第3のローマ」との思想も登場。文化・芸術の隆盛が始まる。 (17世紀~ロマノフ王朝時代 典礼の改革を巡り正教会は分裂。又、皇帝より教会が上位にあると主張した為正教会の力は弱まっていく) ・1721年 ピョートル1世(大帝)は総主教の地位を廃止。替りに宗務院を設置し皇帝の管理下に。美術と宗教を切り離させた。1712年サンクトペテルブルグをしロシア革命迄続いた新首都に。 (1762年即位のエカテリーナ2世と共に西欧の政治制度を吸収し侵略と併合で列強入り。文化・芸術も発展させコレクションはエルミタージュ美術館の母体になった。ボリショイ劇場も建立した。 18世紀末からはツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ、プーシキン等の文豪を輩出した。1812年ナポレオンとの大祖国戦争に終止符、1904年の日露戦争、第1次世界大戦で食料・燃料難となりロシア革命勃発) ・1917年 帝政が崩壊し、教会は2世紀ぶりに総主教制を復活させるが、それも束の間で、今度は「無神論」を掲げるソビエト政権により厳しい弾圧を受ける。 ・1985年 ゴルバチョフのペレストロイカ政策で、再び最大の宗教団体として復活。 ・1988年 政府が全面的に支援して1000年祝賀祭を開催。教会の権威が急速に復活。 日本は明治新政府により1868年の神仏分離令、1870年の大教宣布で廃仏毀釈が進んだが、その後の市民生活に占める宗教(特に仏教)の密着度会いは低いままである事と対照的だと感じられた。 (2)美しく素朴さを感ずる広大な国であった事 モスクワは緑も豊富でゴミも無く道路清掃の散水車も頻繁に見かけ、赤の広場も街並みも教会を中心にしてカラフルで整然としていて、本当に美しい首都であった。勿論ボルガ川の両岸の原生林は期待通り美しく、船からボッーと眺め続けいても見飽きなかった。サンクトペテルブルグは中心部の美術館・宮殿・教会の華やかさは格別だが、一方で自動車も多く道路の渋滞がかなり酷かった。街外れにはコンテナ風のやや粗末な住宅?らしきものの一角もあり気になった。自然や街もそうだが、教会音楽、バレエ、民芸品等の文化度が高く、人々も素朴さを感じさせる人が多かった。ロシアが他国からの侵略や度重なる戦争を繰り返し撃退して来た歴史の概要を知った今、米国との大戦争の瀬戸際に立たされていても割と平然としていられる理由が何となく理解出来た気がした。日本へのお土産は、どこに行ってもマトリョーシカがあっていくつかは買ったが後半はもういいと思って他の品を探したが、帰国後定番だがやはりマトリョーシカがロシア土産らしいと好評だった。ホフロマ塗りの親しさを表すというスプーンも喜ばれた。ただ今回の旅行先はロシアの殆ど全てのように思っていたが、地図で見ると広いロシアの中のほんの西欧よりの一部に過ぎない事も再認識した。 4.番外編(緊迫する国際情勢関連) (1))欧米の経済制裁の影響は? 出発前に欧米によりロシアに経済制裁があった事は知っていたが関空で円をルーブルに替えていった。ところが少なくとも観光客への値付けは殆どがユーロであり、ルーブルで払うとレートに手数料がかかるのか割高になるので驚いた。ドイツとロシアの関係は表面上はともかく意外に密接な事の証左だろう。この問題で帰国後に大ニュースが待っていた。ブラジルでのBRICSの会合でBRICS開発銀行創設決定の報道である。これは戦後ずっと続いて来た米ドル・石油本位制への挑戦になるものであり米国経済にも大打撃を与える事になるので米国は絶対に座視し得ないだろう。欧米のロシア経済制裁の第2弾もあるようだし、今後どう展開していくのか経済に止まらず米国/NATOとロシアの軍事的衝突に至る事も充分あり得る大問題だ。100年前の第一次世界大戦、70年前の第二次世界大戦後初めての世界の覇権構造に大転換を齎す可能性が強い歴史的な出来事と思われる。小競り合い程度で辛うじて平和裏に進展していくのか本当に核戦争になるのか、世界は今瀬戸際に来ていると思う。 (2)ウクライナ政変はロシア攻撃の拠点作り 出発前に、ロシアの隣国ウクライナで暴動後のクーデター的政権交代で親米政権が誕生し、それに即座に対抗したロシアによるクリミア編入、東部ウクライナの親ロ派自治政府の発生、それを押し潰そうとするウクライナ政府軍の攻撃と、米国とロシアの間にかなり激しい角逐があった。旅行の間特にボルガ川クルーズ中は新情報も途絶えて久し振りにのんびりしたが、帰国後事態は緊迫度を増しとうとう7月17日にはウクライナ東部上空1万メートル超を飛行中のマレーシア航空機が撃墜されるに至った。攻撃したのがウクライナ政府か親ロシア側なのかまだ分からないが、私自身ははっきりした推論とその論拠は持っている。いずれにせよ、撃墜直前のイスラエルのガザ侵攻、マレーシア航空機撃墜、イラク北部のISISの攻勢は皆世界の覇権を巡る関連した動きである事は間違いないだろう。周辺国も全て各々多大な影響を受ける事は当然である。勿論日本の中国敵視策や集団的自衛権問題もこれらの動きと直結していて、米国ネオコンの指示に基づくものだろう。一般の日本人からすると信じ難いと思うが、米国は本気でロシアとの核戦争も辞さずの構えであり、中東ガザ攻撃やイラクの内戦やアフリカの資源争いに日本の自衛隊を下請けとして参戦させたいようである。米欧/NATOと連携して露中に対決し、米国から日本に対し一説では軍事費は20兆円、自衛隊員も沢山出すよう強い指示があるといわれている。本当はのんびりと川下りをしたり、こんな旅行記を書いていられるような平穏な場合では無いのだが。 (3)作家ミハイル・ショーロホフと手塚治虫 若い頃ドストエフスキーやトルストイ等の翻訳本を受験勉強そっちのけで読んだが、今回乗る船の船名のショーロホフは読んだ事が無かったので旅行前に短編を探し赤木かん子編の「戦争」(ポプラ社)に選ばれた「人の運命」という本を読んだ。ウクライナがソビエトの一員だった時代にドイツとの戦争(1941年~45年)に召集され人生を翻弄されるウクライナ出身の逞しく優しい兵士の物語で、戦争が人の運命を狂わす悲しみが心に響く名作品だった。ウクライナが地政学的にも本当に重要な位置にあるのは今も昔も変わらないようだ。同じ本に手塚治虫の「ぼくは戦争を忘れない/語り部になりたい」があり実際の被爆撃体験を基に人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家の暴力があった時代の事を語ってくれていた事も知った。昭和19年、勿論漫画は1冊も無かった時代、軍需工場への動員、空襲等について描かれていた。 4.終りに 大概どこの国に行っても一般の国民の多くは善良な人達の方が多い。ロシアはロシア正教会の影響なのか観光客の立場からなのか思っていたよりずっと純朴な人達しか会わなかった。しかしプーチンを支える人達の中にパミャーチと呼ばれる一団があるそうで、この存在があるので米欧/NATOの攻撃に曝されても今の所何とか対抗出来ているそうである。表面だけは自由な民主主義国の体面を装っているが、内実は昨今は特に隠しようも無くあからさまに米国のいいなりにさせられている日本の現状とは対照的だ。いくら天然ガスや北方領土の権利が欲しくても、米国と完全に敵対しているプーチン大統領との交渉が許される状況では無い筈だが、マレーシア航空機MH17の撃墜事故では米国の要請に拘わらずまだロシアの仕業と決めつけず非難をしていないのは注目される事だ。訪日の実現はもう無理と諦めざるを得なくなるのではないだろうかと思うが実現すると面白いのだが。私達も攻められてもかわす術を持って何度も復活する独立自尊の国になりたいものであるが、当面は軍事ではオスプレイの本土配備等本土の基地化進展、経済は消費税増税やTPPの多大な影響により弱者から順次脱落する社会が更に加速して、一層苦境に立たされていくだろう。しかしいずれの日かロシアの250年余続いた「タタールのくびき」ならぬ日本の「米国のくびき」から解き放たれる時が来るのだろうか。いずれにせよロシアは自然も宗教も音楽も文学もとても魅力的な国だった。その一端を見る事が出来て大変楽しく、心の糧になる旅行であった。… [more]

ロシア旅行(ボルガの船旅中心)とその後知った事 ロシア旅行(ボルガの船旅中心)とその後知った事

ギリシャ旅行(古代は神話と民主制国家の源、今は財政破綻のみ強調される国)で考えた事

1.はじめに ギリシャにはおよそ3000もの島があるというが、私は3つの目的でギリシャ旅行では人気のエーゲ海で無くペロポネソス半島主体の小旅行を選んで行って来た。 ①「若き日」に憧れていたがすっかり忘れていた古代ギリシャ文明・美術に直接触れる事。又、一時だが目指したオリンピックの発祥の地を見る事。 ②「民主主義」の淵源と言われる地で、そもそも古代ギリシャの民主主義とは本当はどんなものだったかを考え、現在の日本の「民主主義(もどき?)」の問題点を再認識し今後の参考にする事。 ③財務省は消費税増税の為に「ギリシャの財政破綻」を盛んにPRして一般の日本人を騙している。外国に多大な借金をしている財政困窮のギリシャと90数%が国内で消化される国債で賄う日本の財政の課題との関連性は全く希薄であるとの論点を強化する事。 (1)ペロポネソス半島とアテネ歴史の旅 最近のギリシャ旅行はエーゲ海巡りやメテオラネス修道院等の方が人気があるようだが、今回は古代ギリシャ神話や民主政治の発祥の地として輝かしかった歴史の舞台の中心地である「ペロポネソス半島とアテネを巡る旅」の企画は希望にぴったりだったので飛びついた。 ①オリンピア遺跡は今もオリンピックの採火をするヘラ神殿前の採火灯や2004年のギリシャ五輪の時も円盤投げ会場として使われた古代競技場もあるとの事で、一度は行って見たかった。 ②昔良く父に聞かされたが今は死語のようなスパルタ教育のスパルタは、アテネと拮抗して戦い続けて消耗した為双方共倒れとなり、その後長い間東ローマ帝国やオスマントルコ、ドイツ出身の国王等にずっと支配され続ける結果を招いてしまい、長い主権喪失期間を経てようやく1829年に独立した事や、独立後も2度の世界大戦、戦後の内戦等動乱続きで大変だった歴史の一端に触れる事。 ③何と言ってもアテネでパルテノン神殿を見て往時の勢威を偲びアクロポリス博物館、アテネ考古学博物館で古代ギリシャ文明や美のレベルの高さに触れる事。 ④バッセのアポロン神殿、ギリシャ正教会の聖堂、ティリンス遺跡、エピダウロス遺跡、ミケーネ遺跡、コリントス遺跡等でギリシャ神話の骨格となる舞台を見て、その後の争奪の歴史にも触れて、欧米の文明文化の起源の地がその後どのように展開していったのかに触れるのが目的だった。 (2)古代の民主制国家とはどんなものだったのか。現代にどんな影響を齎しているのか。 3年前のトルコ旅行でエフィソスに行った際ソクラテスも逗留した舞台でもあった話を聞き、昔読んだプラトンの「ソクラテスの弁明」を帰国後読み直して見てギリシャに行かなければと思った。又今回のギリシャ旅行ではプラトンの「国家」が今でも欧米の国家戦略立案者、特にネオコン思想の中心と言われるハーバード大学でも必須な基礎知識となっている事を知り、帰国後初めて読んで見た。昨今の日本の政治状況を見ると「民主主義は理想の制度では無い」という疑念が深まるが、約2500年も前のプラトンの「国家」では民主主義がファシズムを生み出し易い制度である事が語られていて、今の日本や世界各地の実状そのものであり、描かれていた事や人物像は現代にもそっくり通じるものであり自分のようなタイプの人間も批判の対象になっていたりして本当に驚いた。更に日頃日本には民主主義ですら実はちゃんと根付いていないし、むしろ後退している現状である事を再認識させられているのだが(司法・検察当局の権限が強大過ぎ、かつ恣意的運用も強過ぎて冤罪も多い)。日本でも地政学や国際関係論といった学問がもっと深く拡がって視野の広い人物がそれを政策に生かして国際協調を大切にしていかないと、折角アジアで唯一植民地化しなかった国なのに、時を経て「国家」に描かれたように権力者が劣化して政治(軍事)も経済も表向きはともかく実質的に完全に植民地化されてしまう危険性が強まって来ている。 (3)ギリシャと日本の財政事情は全く別物である 今日の一般の日本人には「ギリシャは財政破綻した国」であり「日本も消費税を増税しないとギリシャのように財政破綻してしまうから大変だ」という誤った認識が完全に刷り込まれて、ギリシャは財政破綻した貧しい気の毒な国と考えている人が多い(尤もそんな関心すらも無い人の方が多いが)。しかし、このプロパガンダは消費税増税を認めさせ権益を更に強化する為に財務省等がマスコミを動かし行われたものであり、全く関係もないギリシャにとっては引き合いにされて迷惑な話だろう。ギリシャは2010年にユーロ危機が叫ばれてから4年目を迎え予想通り破綻もせず今の所危機は沈静化している。ユーロ圏にとってギリシャは歴史のルーツであるという意味合いに加え、観光地・別荘地として無くてはならない存在であり、又オリーブやぶどう等の食料も豊富で、ドイツ等からの債務返済要求も当初の厳しい姿勢が徐々に緩やかなものになって来ているようである。ドイツ・フランス中心の欧州にとってギリシャは必要不可欠な国なので決して切り捨てられたりはしないだろう。 一方、貯蓄大国である日本の消費税増税の本当の目的は①消費税の輸出大企業への還付金により輸出大企業の輸出競争力を支援する事 ②法人税減税分に充てる事とが大半の目的である。この事は、これまでの消費税導入後の税収の推移等を調べれば明確に理解出来る事だ。又、「税と社会保障の一体改革」や「高齢化社会での社会保障費の増大に対処する為」という一見尤もらしい大嘘も消費税増税の決定と併せて年金制度等あらゆる社会保障制度の改悪が続く事で隠しきれなくなりつつある。アベノミクスは金融財政で無理やり株を急浮上させ少数の不動産・株式保有者は大いに潤い喜んだが、本当の成功である景気回復に必要な第3の矢の成長力・国際競争力の回復には繋がっていない。今後、経済特区で外国資本を誘致したり雇用条件を自由化して切り下げたりしても本格的な景気回復は困難である。遠からず(中国発になるか?)又々バブルが崩壊し、アベノミクスの失敗が明確になる確率は限りなく100%に近いと思う。一般国民も嘘を信じていたと皆気付く事になるだろうが、その時に後悔してももう遅いのだ。それにしても一般の日本人が同じ嘘に何回でも騙され続けるのも悪く、もう庇いようが無いと半ば呆れ半ば諦めて突き放して見ているしかない。 確かにギリシャの財政事情は悪くユーロの信認を崩しかねない存在のようだが、それとてドルの基軸通貨性を守る為に米国がゴールドマンサックスが中心になってユーロを相対的に弱体化さす為にギリシャを材料にして攻撃を仕組んだ事は知る人ぞ知る公然の事実だ。この状況を利用した日本の財務省は「消費税増税によって自らの権益を拡大する為」だけに、先進工業国で国民の貯蓄が著しく大きくリーマンショック時等も安全通貨としてドルも避難してくる程相対的にはまだ財政が健全な日本と、農業・観光国でドイツを始め他国からの借金比率の高くなりすぎた小国ギリシャでは他の条件は全く違う事を百も承知なのに「GDP対比の政府の債務比率の高さ」のみを取り出してマスコミを通じて多くの日本人の将来不安を煽り、「ギリシャのようにはなりたくないから何とか財政破綻を免れる為、辛かろうが増税に甘んじて社会保障制度を守ると共に子や孫の将来も守っていくべきだ」とマスコミを使って洗脳してしまっているのが実状だ。ギリシャの現状の一端を理解して、「日本の財政問題はギリシャとの関わりで無く独自な問題として考えるべき」という認識が必要である。本当に騙されるのもいい加減にして欲しいものだが、このまま国債増発と公的年金による株式買い支えだけで株高を演出しているとインフレリスクが高まり年金世代を中心に大きな負担増に繋がっていき弱者の脱落が消費支出の縮小、社会の不安定化に繋がっていくだろう。一部で喧伝されているが本来は遠い筈の、ヘッジファンドの狙う国債の暴落や金利急騰等の最悪の事態も視野に入りだして来るかも知れない。 2.旅行日程(2/23~3/3) 第1日目 関空~イスタンブール経由アテネへ 乗り継ぎが慌ただしかった。 第2日目 アテネからコリントス経由オリンピアへ 今回の旅はゆったりとした大型のバスでペロポネソス半島中に麓から山上まで連なるオリーブ畑とぶどう畑を見ながら走り回る旅だった。2004年のアテネオリンピックの時に作られたと舗装道路は驚く程整備されており、トンネルも片側通行で2本ずつ作られておりオリーブが美しいので快適だった。見所は1893年に掘られたコリントス運河だった(現在は小さな観光船が通れる程度)。 第3日目 オリンピア遺跡、考古学博物館見学後ギティオへ ・オリンピア遺跡はBC776年~AD392年迄約1000年間ゼウスへの奉納競技が行われた場所。遺跡中が野生の花々とオリーブ等の木々に彩られレスリングや競技場(2004年のアテネ五輪でも投擲競技が行われた)等各施設が古代そのままに残っていた。ゼウスの神殿や今も2020年の東京五輪でも聖火を採るヘラの神殿も時空を超えて厳かに存在していた。 … [more]

ギリシャ旅行(古代は神話と民主制国家の源、今は財政破綻のみ強調される国)で考えた事 ギリシャ旅行(古代は神話と民主制国家の源、今は財政破綻のみ強調される国)で考えた事

イスラエル旅行と、その後知った事

<はじめに> 今の世界情勢に多大な影響力を及ぼすイスラエルの実像を少しでも観たい、行けば何かが分かるだろうと思い、2013年2月末から10日間行って来た。旧約聖書も新約聖書も読んだ事は無いが、3つの宗教の聖地エルサレムに行きそのイロハも知りたかった。行って見ると思いがけなく美しい風景や、豊富美味な食事も良かったが、何といっても古代から現代に至る壮大な歴史・宗教の渦巻が強烈であった。旅行中やはり実力のある凄い国だと思うようになっていった。ただ他の旅行先の時は、帰国後1カ月程で旅行記も無邪気に纏める事が出来たが、イスラエルだけは何かまだ本質的な理解が足りな過ぎると感じ何も書けなかった。歴史・宗教についても知識不足だし、政治・軍事状況は錯綜しているので表面的知識だけでは不十分で、余程良く見極めないと安易に語れない問題も多く、帰国後に知識の確認や補充が必要でした。10か月経過してようやく最低限の情報の整理と自分なりの納得が出来たので現段階の到達点として纏めて、やっと辿り着いた基礎的判断材料としておきたい。 折しも、最近イスラエル中銀のフィッシャー前総裁が来年2月にFRBの副議長になるというニュースがあった。サマーズやバーナンキを指導した人らしいが、ユダヤ金融資本主義が裏で世界を支配しているという風説がまるでその通り表に現れたようなニュースだ。金融や政治についてちょっと知れば、世界は我々一般人の想像を超えたレベルで極く少数の権力者への集権化が進んでいる事が見えてくる。日本でも日銀の株主、日本の株式会社の株主構成や提携先を見ればおぼろげながら実態が分かってくるし、具体的事例を探して挙げる材料に事欠かない。又、日米欧のマスコミを支配していて僅かでもその実態への言及や批判を封じ込めようとしている。しかし、少人数の権力者集団が銀行、軍事力&検察・警察を握りながらマスコミを通じ情報統制を強化しようとしている実情を全て覆い隠す事は難しいだろう。現在米国ドル・石油本位制による単独覇権維持が難しい微妙な局面を迎え、激しい角逐が続いている事を知る人も少なくない。この問題の根底と今後の見通しを把握するのに良い考える材料を提供してくれる国がイスラエルだと思う。今回見た事・知りえた事を繋ぎ合せ、複雑極まりない世界の歴史・宗教・政治軍事状況に強い影響を与えているイスラエルが一体どんな国か、その一端でも正しく認識して、その力に圧倒されるだけでなく日本の美風・大切なものは何なのかを再確認して守っていく手掛かりにしていければ良いと考えている。 <旅程と概要> 第1日 関空→トルコ航空でイスタンブール経由テルアビブへ ・テルアビブ 空港は賑わっていた。玄関口にベン・グリオン初代首相の像がある。直ぐに空港から北へ走行したバスの両側はずっと菜の花が一面に群生していて、美しかった四万十川や宇佐神宮の川岸・指宿等の菜の花程鮮やかではないが、これだけ連綿と長く続く菜の花畑を見るのは初めてで、本当に綺麗な国に良い季節に来たものだと感激した。 第2日 テルアビブ着→アッコー→ハイファ泊 ・カイザリア テルアビブから北へ40kmの所にある紀元前後、初代ローマ皇帝アウグストゥスに従っていたユダヤのヘロデ大王が築いた街で、ここからペテロ・パウロがローマへ向かいキリスト教の布教を始めたとの事だ。美しい地中海が眩く目に飛び込んできて海岸の間近にある円形劇場跡や導水橋跡等を見ながら散策し、春風を楽しんだ。 ・アッコー  交通の要衝にあるこの街は歴史上十字軍とイスラム等の攻防・戦闘が繰り返された小高い眺望の開けた丘にある。十字軍の要塞も残っていた。現在は残存パレスチナ人が1/3居住しているが高い所はユダヤ人、低地がアラブ人と居住地が分かれているそうだ。オスマンの旧市街は世界遺産になっているが通過しただけだった。 ・ハイファ   … [more]

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イラン旅行と最近の中東情勢で感じた事

<はじめに> イランに9月26日から11日間旅して来た。「栄華を極めた古都と素朴な村を巡る古代ペルシャ・バスの旅」である。 一般的な日本人から見ると「イランは危ない国」のイメージが強い。確かに戦乱・動乱の続く中東は内戦・テロも多いだけでなく、比較的遠いし何故そういう状況になっているか分からないので敬遠するのは理解出来る。しかし、日本のマスコミ報道は欧米マスコミのキリスト教の立場を元にしてシオニズムで出来たイスラエルの影響を強く受けたプロパガンダ報道の追随が多く公平性に問題がある。マスコミ以外の情報も加味して見ると内戦の続くシリアを別にすれば、イランではこの旅行期間に本格的な戦争は起こらないしテロの危険も極小だと判断した。そして今後「イスラエル&欧米とイランの戦争が回避出来るのかどうか」を見守る上でより正確に理解する為に、自分の眼で本当のイランの現状も少し知っておきたかった。一時は米国の空爆の危険が高まったが、ロシアの介入や米国議会が慎重になった事等で回避された。そしてたまたま今回の旅行直前に、ローハニ新大統領とオバマ大統領の歴史的な電話会談があり、又11月初旬からジュネーブで開かれているイランの核開発問題協議が大詰めを迎えている。イスラエルやサウジアラビアの反対が強く協議成立迄に簡単にいく筈はないが、この成否は中東地域だけでなく世界情勢の安定に多大な影響を及ばすので協議の行方を固唾をのんで見守っています。 中東情勢についての基礎知識は、現政権の政策に批判的な元官僚の孫崎享氏(元イラン大使)や天木直人氏(元レバノン大使)の著作やメルマガ、JSRメルマガ他の情報がより公正で信頼性が高いと考えて参考にしている。又、小室直樹氏の「イスラム原論」や「アラブの逆襲」も読み直し、理解出来る範囲で(旧約聖書や新約聖書、コーラン等を読んでいないので充分な理解は難しい)それらも照らし合わせながら自分の感じた事を纏めてみた。日本の人達が国際情勢に多大な影響を及ぼすイラン問題やイスラム教を偏った情報だけでなく、少しでも公正な立場から考えイラン等イスラム圏の多くの善良な人達と友好関係を築いていけたら良いと考えています。イラン(ペルシャ)は決して侮れない実力を持ち世界をリードしてきた輝かしい歴史・文化・宗教が存在し理解を深める事でより心豊かになれると感じさせる旅でした。 <私の見たイランの現状と背景> 現在は人口7000万人余のイラン。豊か過ぎる親欧米産油国のカタール航空便でカタール経由まずは1260万人が住む首都テヘランへ。街はイラン高原の麓で海抜1500Mと高く、北に4000m級の山々が並んで聳えていて美しくホテルではエアコンを切って過ごした(空調は全館一律タイプだが)。山の向こうはカスピ海で南岸は緑も豊かで冬は雪も降るという。テヘラン市内は鉄道や地下鉄の整備が充分でなく南北のメインストリートは酷い渋滞(ガソリン不足の筈だが)で悩まされていた。今は欧米主導で日本も追随した経済制裁で、飛行機の部品が供給されず運行が不安定な為バスで国を縦断しようという企画の旅であったが、却ってよりイランの魅力に浸れる旅だったと思う。 1.宗教=イスラム教関連について ・イスラム教の教義と一般イラン人のイスラム教&現指導者層への思い 使徒モハメットが西暦610年メッカ郊外でアッラーの神の啓示を受けたとして始めたイスラム教の教義に六信(神・天使・啓典・使徒・来世・定命)五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)があるようだ。異郷・異教の私だが、トルコやエルサレム、イラン等を旅して訪れるイスラムのモスクはどれもとても好きな空間です。礼拝は他のイスラム教国では決められた通り5回行う人が多いが、イランでは3回で簡便に済ます人も多いそうで全く行わない人も3割程度らしい。今回のツアーガイドは日本に6年間暮らしたイラン人だったが、預言者モハメッド布教以前のアケメネス朝ペルシャやササン朝ペルシャ時代等古代の非イスラムの歴史・文化の豊かさを誇りにしていてイスラム一色ではないようだった。前回の大統領選挙では投票で下位だったにも拘わらず、イスラム教指導者達の推薦で強硬派のアフマディネジャドが就任したいきさつがあったらしく当時も反対のデモがあり、今回選挙では自分達の選んだローハニが新大統領に選ばれたので米国との関係が改善されそうだと皆大歓迎だったそうだ。 ・偶像崇拝禁止の意義 各地に大小いろいろなモスクがあったがテヘランは少ないと感じた。モスクの中はどこも偶像は何も無く、ただ壁面や天井は美しく床に絨毯やゴザも敷き詰められた心休まる空間でした。イスラム教の偶像崇拝禁止は、バーミヤーン遺跡(アフガニスタン)の大仏の破壊等何であんな乱暴な事をするのかと思っていたが、アッラーの神(神だがヤハウェと同一ではない)を唯一絶対の神としモハメットですら最後の使徒で最大の預言者として位置づけられていて偶像化していない。又イスラム教の信徒間は平等で王様も貧民も神の前では同列だそうで宗教指導者はいるが聖職者・僧侶階級を持たない事は、僧や神官を別格扱いしている日本人には理解しにくい所だ。それでも異教徒の私でも、モスク構内に入ると何とはなしに漂う温かさや優しさに共感や安らぎを感じて心が伸びやかになるのが嬉しい事です。 ・ハラール(食べて良いもの)とハラーム(食べてはいけないもの) テヘラン市内のバザールの中の食料店に質量とも豊富な食材が並んでいるのに驚いた。くるみ・ピスタチオ・ピーナッツがあまりに安くておいしかったので、大量に買って来てお土産にしたが、友人・知人から好評しきりでした。欧米日等の経済制裁により4年間年率30%のインフレに苦しめられているが、それでも食料自給率は100%で輸出もしていて食料問題はないとの事(但しテヘランは家賃が高く、殆どの人が仕事を2つ掛け持ちで働いていて、医師が夜タクシーの運転手をやる位との事だった)。アルコール厳禁なのでノンアルコールビール(但しレモン味等)で過ごしたが痛痒は感じなかった。ケバブも美味だが、ホテル・レストランはどこへ行ってもほぼ同じパターンのてんこ盛りでとても食べ切れなかった。豚だけでなく牙や爪がある動物が禁止されている(ハラーム)が制限は複雑で(意外に解釈は柔軟らしい)、食べて良いものはハラール表示のあるものに限定されているとの事。いずれにせよ食べ物はふんだんで果物も何でもあって皆とてもおいしいし、スイーツはアルコールが飲めないので発達していて、日本に負けず劣らずのおいしいお菓子が豊富でお土産にしたら大変喜ばれました。 ・イスラム教シーア派の国 イランは世界のイスラム人口16億人のうち約1割という少数派のシーア派が殆どの国だ。スンニ派と元々の教義に大差は無さそうだが、モハメッドの血統を継ぐイマームをいだくか、血統にとらわれないカリフを信者代表とするかの違いがある以上の事はまだ理解していないのでこれ以上触れない。イスラム教第一の聖地メッカのある多数派のスンニ派の国サウジアラビアとは関係が悪く、シリア内戦でもイスラム少数派のアラウィー派のアサド政権支持のイランと反政府軍支持のサウジアラビアとは敵対して主導権争いをしているようだ。勿論イスラエルや欧米の諜報組織も深く絡み石油利権を巡って争っているようだが、中東のより根本的な問題はパレスチナ問題だ。それにカダフィーやムバラク等独裁的政権が倒れた現在、サウジやカタール等湾岸国の王家の存在はまだ盤石だろうが微妙でに複雑に絡み合っているので正確な把握は難しいが、出来るだけ正確に知ろうとしている所です。 今回はイスラム教シーア派第2の聖地ゴムでマスアーメ廟を見学。ここはイスラム革命の発端となった地でホメイニ師もここで学んでいた人口78万人の宗教保守派の牙城。多数の参拝者と教学者達がいたが、皆ホメイニ師の怖いイメージとはほど遠くにこやかでゆったりとしていて教学者に声を掛けたらきさくで一緒に撮影に応じてくれた。ゴムを本拠にする現指導者のハーメネイ師達はローハニ以外を選びたかったようだが、52%の選挙結果には抗えなかったようだ。 2.政治&軍事関連 ・原子力 イランは医療用アンソトープの生産を行うテヘラン原子炉の稼働の為20%高濃縮ウランの自国製造を進めていると主張しているが、核保有に繋がる90%以上の高濃縮ウラン製造に繋がると警戒されてきた。そこでイランはIAEAの査察受け入れをするので経済制裁を大幅に緩和するよう主張している。それでも今回協議成立迄至らず20日に再協議となったようだ。イスラエルは自国の安全の為に核武装していて米欧も暗黙で認めている事は公然の秘密だが、中東の他の国の核武装はイスラエルが絶対に認めないので米欧・IAEAも認めない。今回イランがIAEAの査察を認めてもイスラエルが協議成立に反対なのは、核保有せずともイランの影響力の強大化を警戒しているのだろう。イスラエルは経済制裁の緩和を極小にすべく強硬に主張していて大詰めの段階だ。今回旅行時テヘランからイスファハンへバスで南に向かう道中に2か所核関連施設が遠望できる所があったが、走行中の車中からの撮影すら禁止されていました。 ・パフレヴィー時代と(ホメイニ師らの)イラン革命の見方 モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(パーレビ国王)は父の開いたパハラヴィー王朝の2代目。1970年代は米国との関係は良好で最恵国待遇を得て最新鋭の戦闘機や旅客機を供与される等イラン近代化(開発独裁)を推進した。又ヒジャブの着用禁止等の女性解放も推進したが、近代化を嫌うホメイニ師らのイスラム法学者や傀儡政権への国民の反発等でアメリカ大使館人質事件等が立て続けて起こり、最終的に国王は国外追放となった。以降米国との敵対関係が続いて来ていた。今回の旅ではテヘランのサーダバード宮殿で当時のペルシャ絨毯等の宝物を見たが実に華やかであったがイランの人達は敬遠しているとの事で、近代化の時代はたった2代だけで元のイスラム教国に戻っていった事が分かった。ちなみに現在は旅行者もヒジャブ着用が義務付けられていたので妻達も滞在中ずっと着用していた。女性の社会進出はまだまだとはいえ、学生も多いテヘランで大学生の7割が女性だそうです。 3・主に古代を偲ぶ旅行内容 ・テヘラン 考古学博物館では古代ペルシャの展示物が多かったがゆっくり鑑賞する時間不足でした。宝石博物館(イラン中央銀行の地下)では歴代王家のまばゆいばかりの財宝を見学した。 ・カシャーン 人口27万人の王の道(スーサ~ペルセポリス)沿いにテヘランから南へ約3時間のオアシス都市。欧米列強の圧迫下にあったカージャール朝の宰相アミール・カビールが更迭後に暮らし暗殺された世界遺産のフィーン庭園は噴水・池が美しくまだ眼に浮かぶ。バラの花も綺麗だった(バラはイランからイギリス等に拡がったとの事)し散歩は実に快適であった。有名なカシャーンの絹の絨毯は懐具合に関わらず見ると買いたくなるのが必定なので眼を瞑ってパスしました(トルコ絨毯よりこちらが本場だそうです)。 ・イスファハン 途中ピンクの石作りの家や石畳の続く素朴なアブヤーネ村に立ち寄り。おばあさん達が、凄い田舎なのに素敵なピンクのバラ模様のスカーフをしていて似合っていて土産にしようと見たらメイド・イン・ジャパンだったのでパス。この人口僅か数百人程度と思われる田舎村の洞に数名の若者の写真が飾ってあったので何か聞くと、皆1980年~88年迄続いたイラン・イラク戦争の戦死者を祀っているとの事で驚いた。 イスファハンはテヘランから南へ40km。古くから政治・文化・交通の中心の街だったが、16世紀末はイスラムのサファヴィー朝の首都として世界の半分と言われる程栄えた都市。まず創建8世紀のの精密なタイルの美しい金曜モスクから、広大なイマーム公園を一望出来るアリパク宮殿へ。素晴らしい細工を観ながら急な階段を上り、室内楽団もいた所を更に上るとテラスからの眺望は素晴らしかった。広大なイマーム公園は夕方には家族連れが芝生の上に輪になってゆっくり歓談を楽しむ光景が実にのどかでした。人々の日本人旅行者への好意も随所で感じられました。翌日もイマーム広場をゆっくり堪能。本当に広大で周囲にはトルコ石(本当はイラン産)やタイル、ラクダの骨に書いた細密画等多種類の伝統工芸品店が立ち並び時間を忘れて見入って回り何点か購入。決済はドバイ経由であまり歓迎されなかったがクレジットカードも使えました。イマームモスクの細工は素晴らしかったし、公園を一周する馬車も楽しんだり。イギリスのものと思っていたポロ競技も発祥の地はここイスファハンだったようです。是非再訪したい所です。 ・アクダ&ヤズド ゾロアスター教の街アクダ経由ヤズドへ。高いミナレットの金曜モスクを望んだあと、アーテシュキデで拝火教神殿で1000年以上燃え続けているという神秘的な”永遠の火”を観た後、鳥葬が行われていた沈黙の塔という丘を歩いた。イスラム教は本当は異教徒に寛容で共存してきたのが事実のようです。 ・パサルガダエ パサルガダエへ向かう途中のアバルクで樹齢4500年前の糸杉の周囲を散策。糸の名前が全く似合わない巨木ですが、掘り出したものでまだ半分は埋まっている状態との事で、実に若々しく感じる樹でその姿は眼に焼きつき忘れられません。 ペルセポリスの北東87kmにあるパサルガダエ。アケメネス朝・ペルシャ帝国の最初の首都であり、紀元前546年に、キュロス2世の手によって建設が開始された場所。大昔のキュロス2世のものと伝えられる墓には強い存在感があった。。 ・ペルセポリス 史上最初の帝国と言われるアケメネス朝ペルシア帝国の都。最盛期(リビアから中央アジア迄またがる大帝国)を迎えたダレイオス1世(ダーラヤーウ1世)が建設した宮殿群。クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世等が実際に行政をした場所と言われている。山裾に自然の岩盤を利用して作られている広大な宮殿跡だ。今回は間近な森の中の大臣達も泊ったコテージ型ホテルだったので、初日はクセルクセス門から夕日が沈みゆく日没前と、翌日は早朝から大階段、クセルクセス門、百柱の間、謁見の間、東階段、ハディーシュと全体をゆっくり歩くのと2回も訪れる事が出来て史跡を満喫した。東階段の壁に描かれた当時の多くの属国群の民族毎に特徴あるレリーフが興味深く、往時の権勢が偲ばれました。 ・シラーズ 最後が南端にあり、詩人の街と言われるシラーズ。紀元前700年頃からの街だが、13世紀以降学問の中心地となり、詩人サアディーやハーフィズ、哲学者モッサー・マドラーらを輩出し芸術や文学が花開いた。一時衰退したが1750年、ザンド朝が起こると1762年にシラーズはその都となり、カリーム・ハーンは要塞や城壁、バザールなどを改修再建し繁栄を取り戻した。今回の旅行ではローズモスクに立ち寄った。小さいモスクだが名の通りピンクのモスクで内部もステンドグラスも風情があり印象に残った。 4.カタール シラーズからドーハへ飛び、夕方まで市内観光。ラクダ市場やパー・アイランド、ゴールドスーク、スーク・ワキーフ、イスラム芸術館、カタールアルジャジーラの本社前等を慌ただしく見物した。イランの古い歴史建造物とは一転して対照的過ぎる豪華な街が続く。7人に1人は億万長者という国だけあって物凄い繁栄ぶりだったが、ここは日中39℃と暑かったのと巨大なビル群や豪華なヨットが多数等別世界なのでちょっと馴染みにくいと感じた。夜ドーハを発って関空へ。 4.最後に 今年は2月にイスラエル旅行し今回のイラン旅行と併せ、あまり知らなかった世界に首を突っ込んだ1年でした。やっとイラン旅行について纏めたので次にまだ書けなかったイスラエルについて纏めてみます。私は数年前まで政治と宗教についてあまり深く関心も関わりも持たず過ごして来たが、この2つについて皆が少し真剣に向かい合う事が必要な時期に来ていると思う。 ・政治 湾岸戦争、イラク戦争、各国のアラブの春、シリア大内戦、イラン核開発問題は根底にパレスチナ問題と深く繋がっている事が見えてきた。湾岸戦争やイラク戦争で多額の資金を出して米国を支えた日本。戦争が続き財政難に喘ぎ出した米国。日本人の生計にも大きな影響を及ぼして来た。今後更に大きな動きが予想される。目先の利害にのみ捉われず、国際情勢も踏まえてキチンと正しく見て他人任せにせず関与していく必要がある。 ・宗教 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。いずれも1神教で元々の神を共有しているようだ。それら同志の骨肉の争いの歴史と論理は今後も少しずつ理解を深めていきたい。八百万の神を祀る日本、靖国神社だけを特別大切にする人達もいて有力だ。仏教も葬式主体で僧の在り方にも疑問もある。宗教は無宗教も含め価値観の根底にあるもので、狭い道徳を一律に押し付けるのでなく、各個人が比較宗教学的に見比べて考えていく必要がある。 権力を握っている人達の専横で全てが決められるのでない、空気を読んで従うだけで無く、しっかりした考え方で草の根で繋がっていく時代にしていきたいものだとつくづく感じています。… [more]

イラン旅行と最近の中東情勢で感じた事 イラン旅行と最近の中東情勢で感じた事

ドルの弱まる時代。どう対応する?

<はじめに> 新聞・TVでも、アメリカの「債務上限問題」を報道したので、一般の日本国民もやっと「アメリカは大丈夫なの?」と感じ始めた。殆ど多くの人が「それでもアメリカは大丈夫」「債務上限額はこれまでもずっと何十回も上げられてきたので今度も問題ない」と考えそこで思考を停止し、これまで通りにその枠内で行動する。だが米国単独覇権が終わりに近づいていてサインが色々と出だしている事には無頓着だ。今の国際金融制度に代替する制度が明確化するにはまだまだ時間を要するが、近い将来大きな変革が起こる歴史的時代を迎えている事は確かだと思う。この事を指摘する著作・報道も少しずつ増えて来たが、今回はまず「オバマ発金融危機は必ず起きる」山広恒夫(ブルームバーグ・ワシントン支局)著に沿ってその骨格を主体に纏めて見た。 <今、草の根の日本人が認識すべき事> 米国ドル基軸体制に絡めとられた日本は米国の植民地同然になりつつある。どう対応すれば良いのか名案は無いが、まずは現状を的確に把握する事から始め自分の出来る範囲で対抗するしか無い。   1.大きな流れの基本認識 米国は「建国以来の第1合衆国銀行が創設された18世紀末を起点とする経済発展の長期波動の転換点に達して来ている」との認識が必要。 ①1971年・ニクソンショック=金ドルの交換停止でドルが現実の価値を失い、米国は基軸通貨国としての矜持をホントは40年余前で既に失っている。 ②1985年・プラザ合意。この時も日本を犠牲にして危機を脱出した。日本は失われた10年の時代に突入し、以来ジリ貧に。 ③2008年・リーマンショック(住宅金融のバブル化とその破裂)は「100年に1度」でもなければ、既に克服されたものでもなく、今後のオバマ発の本格的な金融危機の序曲に過ぎない事。 2.QE(FRBのニューマネー供給)の現状 オバマが推進したリーマンショック対策の金融規制改革法は「偽りの金融改革」だった。オバマは「ヘッジファンドのお友達」。FRBも大量のマネーを投入して金融機関を救済した。金融機関はただ同然で資金を調達して利益を上げ新たなバブルのリスクを世界中にまき散らしただけで、本質的な問題は何も解決していない。FRBや金融当局者は「精神の無い専門人」。物価指数やGDPの伸びが下方に触れるとデフレ恐怖症にかかり、ガソリン価格・教育費・医療費・交通費・食品・自動車&家屋の修理費等の大変なインフレを実感出来ず、一般の米国民や他国への配慮は全く無い人達です。 ①QE1(09.3~6ヶ月間)→FRBが米国債3000億ドル購入&住宅ローン担保証券MBSを1兆2500億ドル他、合計1兆7250ドルで金融機関を救済しリーマン危機をひとまず先送りし切り抜けた。 ②QE2(10.11月~11・6月まで)→FRBは6000億ドル購入&MBS償還金3000ドル購入。米国では豪華客船クイーン・エリザベス2世号だと大歓迎されたが、R.マンデルコロンビア大教授は本当は「世界経済へのテロ行為である」と言及した。バーナンキは「実態は米国の金融システム=ウォール街を力強くするウォール街限定の振興券」である事を認めていた。 ③QE3(12.9月~)→月額400億ドル購入。雇用市場が改善する迄。既に開始後1年以上経過しており、縮小観測もあったが縮小出来ず。取りあえず当面半年程度の延期と見る向きが多い状況。中国は米国債の持ち分を縮小する傾向である。サウジアラビアですらシリア空爆問題を契機に米国と距離を置き始めたようだ。もうどこも買い支えるのが難しくなりつつある米国債を日本だけがアベノミクスで買い増ししている異常な事態になっている。これは「基軸通貨の緩やかな減価政策」であり、21世紀の「米国版徳政令」であるといえる。この事を「長期的安定に沿ったインフレ」等と言って誤魔化して債務を帳消しにする構えでいる。しかも、この過剰流動性が世界経済を混乱させて来たし、今後も米国以外の国が混乱の影響を背負う事になるのであるが、米国は他国の痛み等我関せずの構え。 ニューマネーの供給だけで「最大限の雇用」を確保する等は夢物語に過ぎない。金融関係の雇用者が少し増え報酬が上がっても、利益至上主義に凝り固まった経営者は労働者の削減と賃金引き下げしか考えない。マンデル教授も「基軸通貨であるドル相場の下落は海外のドル保有者に税金を支払わせる事に繋がる」と警告している。 3.今後の展開予測の一例と日本の一般国民の対策 ワシントンのシンクタンクは債務上限問題は2014年2月7日まで引き上げられ今回はデフォルトを回避したが、この「非常手段は長続きしないだろう」。債務上限の新たな引き上げ期限が到来する時の債務上限は約6000億ドル増の17兆3000億ドルと予測。多額の税還付を行う時期と重なることもあり、次回の引き上げ期限は2014年3月頃迄しか延長出来ないのではないかとも言われている。ここを乗り越えるとフレディマックからの配当金の支払いも得て数4半期息がつけるとしているようだ。今後の展開について正しい情報を常に把握していく必要がある。 日本でも、金融当局に近い立場の人や既に優良な株式を保有している人達、それに自己資金を金融資産と投資資金とに厳格に区分管理出来てプロ顔負けの実力のある人はともかく、それ以外の一般人は日本政府&金融機関からのあの手この手の株式&債券購入への制度的誘いに負けず市場と距離を置き(今からの市場参入は、当面はまだ大丈夫でも、いずれバブル崩壊時に逃げ遅れて鴨葱の類になる公算が強い)価値観を問い直し物を大切にして、まだまだ多い無駄を省き、信頼出来る人達と連携して籠城するしかないだろうと考えています。… [more]

ドルの弱まる時代。どう対応する? ドルの弱まる時代。どう対応する?

反消費税増税カテゴリについて

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若い頃の旅行はスキーや海、ランニングが主体だったが神社仏閣も随分行った。最近はもっぱら文化・歴史探訪が中心。特に現代の紛争の中心中東・イスラエルや中国・日本の正しい歴史を知りたい見たいと思っている。戦争に繋がる煽動や偏った愛国心に平和が乱されないように祈りつつ。

(旅行・国内)

ドライブ好きなので、各任地でそこを基点に仕事や観光で主に土日に日本中実にいろいろな所へ行ったものだ。

新潟で18歳まで(毎夏父の故郷佐渡で遊んだ)、東京で4年+2年(スポーツの合宿で軽井沢・白馬岳・立山・山中湖・新居浜等)、名古屋で7年(愛知県全域・志賀高原・飛騨高山・三重)、高知4年(桂浜・仁淀川・四万十川・四国88か所中50数か所・剣山・石鎚山)、堺4年(大台ケ原・吉野・琵琶湖バレー・京都、奈良神社仏閣・十津川・熊野・六甲・大山)上野3年(みなかみ・上野公園・浅草)、博多5年(えびの高原・雲仙普賢岳・霧島・桜島・屋久島・高千穂峡・阿蘇・五木・別府・湯布院・由布岳・唐津・呼子・有田・能古島)仙台3年(蔵王・八甲田・安比・八幡平・雫石・花巻・遠野・栗駒)、大森4年(2年静岡・甲信越・山梨・北陸3県、あとの2年神奈川・千葉担当)。妻が京都6年、札幌4年。

(旅行・海外)

ずっとドメスティックで海外はあまり縁がないと思っていた。初めてが40歳過ぎで韓国。次に米国・メキシコ・カナダ、スイス(マッターホルン)、タヒチ、中国(上海・西安・北京・大連・香港・深圳・アモイ・青島・成都)、マカオ、台湾、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア(バリ島)、モルディブ、スリランカ、オーストリア、ドイツ、フランス、ニュージーランド、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、イギリス、インド、イタリア、トルコ、チュニジア、スペインの28カ国。

大変恵まれた時代に生まれたものだ。まだまだ行っていない所だらけで、円高を生かしてあと少なくとも22カ国合計50カ国は行って見たいと思っているが…体力・金力が続くだろうか。

(スポーツ・昔)

学生時代重量挙げ。インカレ個人戦ミドル級6位が最高成績。名古屋でウエイトトレーニング・スキー。高知でランニング、10km40分程度。福岡でゴルフ(ベスト82)、仙台でスキー2級の上程度。

(スポーツ・現在)

50代でリウマチになりリハビリ中。膝・足首・肘の痛みに耐えながらの軽い散歩が限度ですが、気持ちは復活を夢見ています。



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広州・桂林・陽朔旅行で思う事(善隣友好が大切です)

2012年06月14日
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興坪

<欧米日の衰退を隠す、やらせ景気回復>

日米欧主導の時代が曲がり角に来ている。副島隆彦氏の「欧米日やらせの景気回復」によれば、ユーロ圏は米日とも協調してジャブジャブ・マネーを作りだし、そ の結果フランス大手3行等欧州の30行が倒産を免れ、一時的に円安、株高の局面になっていると論じ、投入金額が巨額なので暫くはその効果が続くとしてい る。ドイツまで米国金融工学に騙されていたのでユーロは大きな危機だが、これで乗り切る事が決まったようだ。まだ危機の演出は続くが、この大きな流れは変 わらないだろうが円高・株安が再燃したり、日銀の介入で円安・株高になったり方向性が定まらない不安定な局面が続いており、注視が必要である。

<中国等のBRICSの台頭>

米国1国覇権の時代から、中国との2極時代が始まっているのは確かだ。中国等BRICSの台頭は目覚ましいものがある。しかし日本経済新聞やNHKを始めマ スコミは、米国や官僚の統制により、米国金融の内情の酷さや、米国の貧困大国化や、米国民の統制強化・自由の喪失等には触れず 「日米同盟の深化の重要性」のみを強調するだけだ。IMF等を通じた日米欧の官僚統制経済の強行により衰退を隠し、各国民の負担を増大させて米国債・株価・景気を維持する事に必死である。
一方の極に成長したBRICSの動向について日本の報道はあまりに少なく、しかもマイナスのもののみ選んで誇大に報道していて、マイナスのイメージを植え付ける意図が強過ぎるようだ。正しい、実態を掘り下げた情報が本当に必要な時なのだが。

<分断工作・米国の戦略とマスコミ>

米国と隷従する日本の官僚・政府は中国との尖閣諸島領有を巡る争いを煽ったり、韓国人の多い特別永住者の地方参政権の問題や韓流過多を批判したり、北のミサ イル問題を過大に騒ぎ立てる等、日本と近隣国と争わせるようにあからさまな工作を展開している。マスコミは積極的に動いており、まともなジャーナリズムで はなく、分断工作の首謀者の一員であるように見える。

<米国の戦略の変更>

・中東への関与減
米国はアフガニスタンで2014年末に治安の権限を委譲する。2012年7月から米軍の一部撤退が始まるが、パキスタンとの関係悪化で退路の確保も難しそう だ。今後中東への関与度の後退を余儀なくされている。シリア情勢の日米欧の報道も一面的過ぎ、イラクに大量破壊兵器が無かったように、民衆虐殺を誰がやっ ているのかは疑わしく、真相を見極める必要がある。
イランの核施設への攻撃が決行されるのか?が最大の問題なのだが今はサイバー攻撃を仕掛け核施設空爆以上の戦果をあげようとしているようだ。
・中国包囲網作り
いずれにせよ米国は中国を仮想敵国に見立て包囲網を構築しようと新たな防衛線作りに必死のようだ。野田政権に森本氏を防衛相にするよう指示し、対中国敵視政策を遂行させようとしている。
しかし事は単純でなく、米国債の保持を続けて貰わないと経済が成り立たないので、中国とは裏の繋がりは太いようだ。
米軍の再配置に呼応したと思われる東京都・石原知事の尖閣諸島購入の動きを丹羽駐中国大使は批判したが、政府から撤回させられ、近々交代のようだ。本当は視 野が一面的で挑発的過ぎる東京都が購入する方が問題なのだが。野田首相自身も対米盲従しか考えていないので、このままだと日中関係も難しい局面になってし まう恐れが強い。

<近隣国とは善隣友好関係が一番>

・軍拡や戦争を煽る人達
一般市民にとっては、隣国との密接な友好関係に基ずいた交易や人材の交流による安定した互恵関係が共通の利益なのだ。米国の産軍複合体やそれに連なる人達にとっては、緊張を高めて高額な武器を売却する事が多大な利益に繋がるので危機の演出に必死だ。
更に一番の問題は、米国大銀行達の大赤字の裏帳簿を御破算にする為に戦争を起こそうと企んでいる人達がいる事で、いろいろな策謀を繰り広げており、徐々に緊張が高まりつつある。

・ネットの情報把握と共有で友好促進に繋げよう
幸いにも、今は一般市民でも米国やイスラエル政府の意向・動向がネット上である程度把握出来る時代だ。彼らの意図・行動を監視して暴発させぬよう注意が必要 だ。一方隣国中国の実像を把握する為に出来るだけ自分の眼で各地を見て回り、正しい情報により無益な戦争や軍拡競争に陥る事なく、安心して交易・交流出来 る関係作りが重要である。

<中国の実像に迫り良好な関係作りをしていこう>

今回の旅行で自分で見聞きした最近の中国の実像を纏めてみた。大国中国の僅かな一部分とは思うが、悪意を持って対立を煽る日本の情報空間を通じた中国の姿と実態とは乖離が大きいのが実情と思う。
私達は素直に中国の急速な実力の向上を認めた上で、発展に伴う様々な問題点も把握しながら、対等・親密な両国関係を築いていく事が重要だ。その基盤を築いた上で楽しい民間交流をしていきたいものです。

2.それぞれが美しい街。急速な成長はまだ続いている。

(1)広州・桂林・陽朔旅行で感じた事

<広州=落ち付いた大都会>

・関空から4時間15分の広州は広東省の省都。人口1270万人の中国第三の都市だ。上海や北京より渋い、落ち付きを感じさせる街並みである。
・「食は広州にあり」は本当だった。広東料理だけでなく、四川・北京等多彩な料理が味わえる。
・香港・深圳のほぼ西。深圳も近く、電車で2時間程で香港にも行けるし、マカオも遠くない。
・市内の中心街は銀座の道を少し細くした感じで美しく、通行人は皆かなりお洒落だ。中心街にさりげなく宋・明の時代の発掘された古道があり、気楽に安心して散歩が楽しめる。
・ショッピングモールは香港資本(李兆基の恒基兆業地産集団?)による最新の作りで華麗で広大だった。本当に沢山のブランド店が軒を連ねていて、中国の富豪達用の高額な翡翠・金製品が並べられ圧倒される。眼の保養にはなったが。
・市内の西越博物館には古代の墓・煌びやかな埋葬品があり、一見の価値がある。

<桂林=景観の素晴らしい国際的観光都市>

・広州から飛行機1時間余りで桂林へ。ここも大きく立派な空港だ。
・ホテル(漓江大瀑布飯店)からは漓江の景観が眺望出来る。翌日象鼻山や七星公園を散策した。公園は広大な森で入場料が高いらしく人が少ないので、3頭いるパンダも間近でガラス越しにゆったり見れた。

・近くの両江四湖クルーズでは4つの少数民族の住居を巡り歓迎を受けた。川に点在する少数民族は観光客に文化を見せて暮らしているようだ。
・お目当ての漓江
下り(距離83km)は山水画に良く出る景勝地の風景が竹江から陽朔までずっと続く。今回は雨で水量が多く4時間で下ったが、両岸の景観が変化し続け全く見飽きなかった。
・桂林の人口は500万人弱だそうだが観光客が多く、国外から年間500万人も訪れるとの事。国内からも3000万人と言う。空港も立派で欧州からの観光客も沢山いて賑わっていた。

<陽朔=懐かしい風情の桃源郷>

・桂林から陽朔はバスで2時間程。陽朔は人口30万人の小さな県。中心にある西街は西洋人が多い街の意で、国際色豊かでホテルからも近く、民族品のショッピングが楽しかった。
・ 景勝地陽朔に3泊したが、ホテルは5つ星で木材を多用した瀟洒で大きなリゾートホテルだ。部屋のベランダから山水画そのものの風景が見え、沢山の鳥の鳴き 声が聴こえ、眼前を流れる小川に筏舟が行き来し、牛追いの農民もいて、蛙も鳴き、本当に昔懐かしい桃源郷のような所だった。
・すぐ傍から6人乗りの筏に乗って小川を下る。鵜飼も間近で見れた。長良川より大きな魚を何度も飲み込み吐き出していた。暫く川岸を歩くとラクダまでゆったり歩いていた。
・扇子で有名な村の福利鎮見学後、漓江を見るスポット(20元札の図柄にもなっている)の興坪では、日本人の林さんが作った「和平亭」から漓江を眺めたがなかなか乙であった。
・農村は昔と様変わりしてすっかり豊かになったようで、農家の3~4階建ての大きな家並みが点在して続き、用水路も整備が進んでいて、農産物も種類が豊富でおいしいのには驚いた。
・夜は水上歌劇「印象 劉三姐」を観た漓 江の川と山全体を舞台にして600人が舟や川岸で演じる。北京五輪でも活躍した演出者の光や音声効果が素晴らしく、オーストリアで観た野外オペラにも優る とも劣らないものと言えよう。但し、雨だと川の水量が増え中止になる事が多く、3日泊った最後の日にようやく観る事が出来たのは運が良かった。

3.中国関連の最近の動き

<変化の兆し>

6月から円と元がドルを介さず直接交換出来るようになった。まだ3大銀行位しか活用していないようだが、徐々に貿易業者にも拡がっていくのだろうか。観光客に限れば土産物購入で円は歓迎されるので、もう先行しているのだが。

6月7日、上海協力機構(SCO)加盟国首脳理事会第12回会議(北京サミット)が北京で開催されている。発足して日が浅い国際機構だがこれまでの10年間を順調に歩み、安全保障、経済、人的往来及び文化などの各分野で大きな力を持つようになって来ている。今回はアフガニスタンまでもがオブザーブしたようだ。ロシアのプーチンはG7に参加せずSCO参加を優先した程である。
米国一極覇権の時代は確実に最終局面に入っていると言えるのだが日本のマスコミ報道では全く分からないだろう。

<いくつかの大きな課題>

日中間には先の日華事変・大戦という不幸な時代があり、靖国神社参拝問題や南京事件についての歴史認識問題等を抱えている。中国共産党独裁でチベット問題もあり、伸びていてもまだ新興国で商品の品質は良くないとのイメージも残存している。

何よりも中国軍の力が増大しており、核搭載の潜水艦やミサイルが米軍にとっても大きな脅威になって来ているようだ。米軍が沖縄集中配備から、グアムやフィリ ピン、タイ、ベトナム、豪州等に分散配置を図っているのもこの脅威を避ける為なのか。米軍はもう辺野古移転は考慮外になった筈だが日本政府は必死に繋ぎと めようとしている。県民の意識はますます県外移設で固まっているので不可能だろうが。

尖閣は折角実効支配しているの だから、棚上げして資源の有効活用策を持ち交渉していけば良いのだが。中国漁船衝突事件も尖閣3島東京都買い上げ問題も、日本から(米国の指示で?)わざ わざ喧嘩を売っているように見える。国の対応が不充分ではあり問題提起の意義は認めるが、強がるだけの愚かな行為と思う。

日本が米国の軍事力をあてにして「日米同盟の深化」とかいう美名の下、自衛隊が事実上米軍の指揮下に入るかのような動きが進んでいる。国会でまともな論議が 無くなって事実がどんどん先行しているようだ。集団的自衛権の行使も認めないと言葉では言うが、なし崩しに拡大解釈して米軍との共同軍事演習を海外各地で 始めそうなのは問題である。
いつの間にか中国を仮想敵国であるかのような動きが始まっている。一方で中国との貿易は米国とのそれを金額で上回り、不可欠である事が過小評価され過ぎていると思う。

4.友好・交流の輪を拡げよう

それにも増して日中間の長い歴史・文化の交流を軽視し過ぎていないか。英語が国際的に重要な言語である事は論を待た ないが、米国の支配層の考えである「合理的精神」を突きつめていくと、金が全て、力が全て、自由競争で勝者と敗者がいるのは当たり前という殺伐とした世界 になっていく。中国も幾多の戦乱を経ていてとても一筋縄ではいかないので充分な警戒は必要だが、胡錦濤主席の儒教を土台にした「和階社会」の理念は成功し ているし、一定の信頼は出来る国だと思う。

とにかく米国一辺倒で隷従して中国を敵視する政策は取るべきでない。交流の輪を少しでも拡げていく事が望まれる。成都も青島も厦門も大連も素晴らしい街並みになっている。どこも数時間で行ける本当に寛げる所なのだ。
又豊かになった中国人に沢山来て貰い、日本の良さを体感して欲しい。今回関空に帰る便は満席で多くの中国人が乗っていた。(白いランニングシャツ姿の農民が国際便に乗る時代だ!)

私 は初めて中国へ行った時、平安初期に苦労して海を渡った空海が訪れたという西安の青龍寺へ行って見た。そこで求めた槐樹の数珠を今も大切にしている。今住 みだした所も高野山へ1時間半で行けるので縁を感じている。仏教は昨今は葬式仏教と揶揄されるが、簡単に捨て去る程値打ちの無いものではないと思う。
お茶も漢字もいろいろ中国伝来のものは多い。この歴史的・文化的な太い絆はもっと大切にしていくべきではないだろうか。



地中海クルーズ記:フランス、ミラノ

2011年11月23日
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⑦マルセーユ&エクス・アン・プロヴァンス

【概要】
マ ルセーユは人口82万人でパリに次ぎ2位、都市圏人口ではリヨンに次ぎ3位。近郊に古都エクス・アン・プロヴァンスがありそれらを合わせると135万人。 南フランスの貿易・商業・工業の中心地。地中海最大、欧州第3位の玄関港として120カ国の港と連絡している。TGVでパリには3時間で行けるようになっ た。

マルセーユは商業都市で観光面の魅力は乏しいが、セザンヌの故郷のエクス・アン・プロヴァンスと共に2013年には欧州文化首都(1985年に始まった制度。1年間集中的に各種の文化事業を展開する)になる事が決定済みである。

【歴史】
・ 紀元前600年頃小アジアから来たポカイア人(ギリシャ民族)が築いた植民都市マッサリアに端を発する。ポエニ戦争ではローマ側につきカルタゴと敵対。紀 元前49年からのカエサルとポンペイウスとの内戦ではポンペイウスを支持したが敗北し自治権限を縮小された。3世紀頃キリスト教が齎された。10世紀にプ ロヴァンス伯が支配。
・1481年にフランス王国に併合される。中世は振るわなかったが18世紀には港の交易が盛んに。1720年ペスト流 行もあったが後半には復興した。フランス革命とナポレオン戦争で一時後退したがその後商工業が発展した。第2次世界大戦ではドイツ軍に占領され大きな損害 を受けた。

【感想】

エクスの意味は泉だそうでプロヴァンスの街の至る所に噴水が見受けられた。5世紀 から17世紀までのあらゆる建築様式が集合した旧市街の中心のルシェルム広場の朝市でプロヴァンスの石鹸を購入。セザンヌのアトリエは2階建ての林に抱か れた小さな建物だった(日本人の感覚では十分広いが)。机・椅子・絵の道具が当時のままで感動。ちょっと離れたローブの丘からサン・ビクトワール山を遠望 した。この場所から見た山を1000枚以上(油彩は30枚?)も書き続けたのか!死後に皆世界各地に売れて行き、アトリエに原画が1枚もないのが人気を物 語っているのだが…セザンヌの実家も近くにあり、父は銀行家で裕福だったようだ。

マルセーユに戻り、昼は本場のブイヤベースを味わった後、1ユーロのミニトレインでノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院へ。ローマビザンチン様式の聖堂で高さ46Mの鐘楼の上に黄金のマリア様が。

高台で暫し風に吹かれ港や船を遠望して、又ミニトレインでスリルを味わいながら港に向かった。

⑧ミラノ

【概要】
イタリア・ロンバルディー州の州都。稚内とほぼ同緯度だが比較的温暖。イタリア第2位、北部イタリア最大の都市で人口130万人、近郊を含む都市圏は434万人とローマを凌ぎイタリア最大で、商工業・金融の中心。観光地としても名高い。
ミラノ・コレクションで知られるように古くから服飾・繊維等ファッション関連産業が盛んだが、近年は航空・自動車・精密機器工業も発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成。

【歴史】
紀元前600年のケルト人の町が元。前222年にローマが征服しローマ帝国の元で繁栄。
4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代は西ローマ帝国皇帝の宮殿のある首都に。→450年頃フン族、539年ゴート族に破壊されたが8世紀末再び繁栄を始める。
中世を通じミラノは大司教に統治されたが、封建貴族は独立性をある程度保ちながら大司教の世俗的支配から脱していった。 →東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルド王国の時代を過ぎ、
11世紀には富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と東ローマ帝国からの独立を果たした。
1162年、神聖ローマ帝国のフリードリッヒ1世の軍隊に破壊されたがすぐ復興し、ロンバルディア同盟を結成、1176年にはフリードリッヒ1世を打ち破り新しい繁栄の時代に。
中世後期とルネッサンス時代はヴィスコンティ家とスフォルツア家の公国に。
1277年ヴィスコンティ家が領主デラ・トレ家から統治権を奪い1447年まで支配。特に初代ミラノ公ジャン・ガレアッツオの時代は黄金時代であった。

1450年に軍人フランチェスコ・スフォルツアが統治者に。その息子ルドビコは学芸の保護に熱心でレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに招いた。し かし1500年にフランス軍が占領、一旦ミラノを去るが再訪、ミラノ派と呼ばれる画派を生んだ。スフォルツア家はフランス・スイス・オーストリアに操られ ながらも支配を続け、1535年血筋が途絶えるとスペインの統治下に。18世紀のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によりオーストリア・ ハプスブルグ家に帰属。
ナポレオンは1796年オーストリア人を追出しティザルピナ共和国の首都に→1815年ロンバルト=ヴェネト王国でオーストリアの手に戻るがイタリア抵抗運動の中心地となり1848年オーストリア人を追放。→1859年フランスの支援でサルディーニャ王国がミラノを解放。
1861年イタリア王国に加わり発展。
第2次世界大戦では連合国に激しい爆撃を受けたが戦後復興。戦後はモダン・デザインの発信地として国際デザイン美術展のミラノ・トリエンナーレが開催されている。

【感想】
ジェノバでスプレンディダ号に別れを告げ、午後ミラノ見学。ゴシック様式の大聖堂(ドウオモ)は天を突くような尖塔が135、ひときわ高い108mの大尖塔には金色のマリア像が見えた。

1386年に着工し正面ファイザードが完成したのが1813年、建設と修復がが同時に行われて来た建築である。エレベーターで途中まで上がり更に苦労して階段を上り屋根の上から尖塔を間近に見たり街を見下したりしたので忘れられない。

近くのヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア(アーケード)に行き、牛の絵のモザイクタイルの上を左足の踵で一回りすると願い事が叶うを得れるという所で行列に並び一回り。

最後にスカラ座前で再訪を期し、レオナルド・ダ・ヴィンチの記念像(1872年製)を撮影しミラノの短い滞在に別れを告げた。最後の晩餐の絵は見れずじまいであった。



地中海クルーズ記:スペイン

2011年11月23日
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⑤マジョルカ島(スペイン)

【概要】
今は西地中海に浮かぶバイレアス諸島の州都。人口約40万人だが夏は倍に膨れ上がるとの事。観光はベルベル城と大聖堂とデパート巡りであった。

【歴史】
13~14 世紀、スペイン北東部の国アラゴンの征服王・ハイメ1世が1229年からイスラム支配下のマジョルカ島に侵攻。1276年死去の際ハイメ(ジャウメ)2世 に継承。兄のアラゴン王ペドロ3世と対立し、フランス王フィリップ3世・ローマ教皇フィリップ3世と連合し闘う等を経て1311年ジャウメ2世死去後財政 危機に陥り1349年リュクマヨールの闘いに破れ滅亡、スペインのアラゴン王国に併合された。

【感想】
そ のハイメ2世の居城としてスタートしたベルベル城。ベルベルは見晴らしの良いと言う意味らしい。小高い丘からパルマの街、ヨットが沢山繋留されているハー バーが良く見えた。近くにある大聖堂は1230年に建造開始、1601年にやっと完成したそうだ。カタルーニャ・ゴシックの傑作で20世紀の改修はガウ ディも係わったらしいが午後2時に着きデパート買い物も組まれた短い時間での慌ただしい観光だったので、この旅行で唯一不満の残った1日だった。

最後に現地ガイドさんが、日本人が120名位しかいないので移住してくれる人はいないだろうかと寂しそうに言っていたのが印象的であった。いい所ですよ。

⑥バルセロナ

【概要】
スペイン・カタルーニャ州の州都。人口160万人だが近郊を入れると420万人。14世紀に建設された城塞を起源とする旧市街と1859年の大拡張された碁盤の目のような新市街からなる。1992年のオリンピック開催地。

【歴史】
伝説ではハンニバルの父ハミルカル・バルカがカルタゴ人植民都市であるバルチーノを建設したと言う。後にローマ人がカストロム(ローマ軍の宿営地)に作り替 えた。5世紀はゲルマン系西ゴート王国(415年~711年)が支配。476年に西ローマ帝国が滅亡するとフランク王国と覇権争い。621年イベリア半島 をほぼ制圧したが711年イスラムのウマイヤ朝に征服された。
801年フランク王国の辺境領に組み込まれたが自立を始めカタルーニャ君主国 を確立し、985年イスラムのマンスールの包囲を撃退。その後アラゴン王国は拡大しアテネまで地中海を支配するが、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合 とカスティーリャ王国で統一王朝が出来るとスペインの中心はマドリードに移行していった。1714年スペイン継承戦争で再び荒廃。フェリペ5世は反乱した バルセロナを処罰した。
19世紀産業革命後「大拡張計画」が採用され中世の城壁は取り壊された。20世紀初頭にカタルーニャ人が自治と文化的表現の自由を求めて騒乱を起こしバルセロナの復活が明確になった。
この時のモデルニスモ(新芸術運動)を産業ブルジョワジー(グエル=ガウディのスポンサー)が支援した。

ス ペイン内戦(1936年~1939年)バルセロナは無政府主義運動の拠点に。しかしフランコ軍に侵略された以降数十年間は恐怖政治とカタルーニャ語の使用 を禁じられる等の抑圧が続いた。この内戦の事は「誰がために鐘がなる」や「ゲルニカ」位しか知らないが、いろんな要素が入り乱れ骨肉も別れて争う激しい闘 いだった事だけは間違いないようだ。
1975年以降自治政府も復活し「カタルーニャ」の独自性を追及する時代~現在に至っている。
バルセロナの人々はケチで働き者と言われスペインのGDPの1/4を稼いでいて普通のスペイン人とは違うようだ。

【感想】
ほ ぼ終日観光出来た。アントニオ・ガウディの代表作サグラダ・ファミリア(聖家族教会)は内部も、特に外観は見た事が無い芸術性が感じられ素晴らしかった。 生誕の門、受難の門も工事が続けられていて何回も訪れた人達は口々に前はここまで出来ていなかった、又来て良かったと言っていた。


バルセロナの街と地中海を見下ろす高台のグエル公園の散策も実に楽しくガウディのカサバトリョカサミラは一度ご覧下さいとしか言えない空間でした。

昼は海辺の半野外レストランでパエリアとムール貝。子イカのフリッター等素朴な味は格別です。

午後のカタルーニャ広場にはいろんなお土産店や、奥の方には青果物・魚市場もあり多くの国から来た観光客達も交え大混雑でした。同じグループの常連の方は「ここのカラスミがおいしいので毎回買って帰る」のだそうです。バルセロナはとにかく楽しい再訪したい街でした。

夜はフォーマル・ナイトで船長主催パーティーで挨拶やアトラクションで盛り上がりました。

 

 

 

 



地中海クルーズ記:チュニジア

2011年11月23日
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④チュニス(チュニジアの州都) 

【概要】
チュニジア共和国はアフリカ世界・地中海世界・アラブ世界の一員。アルジェリアとリビアに挟まれており現在はこの両国とモーリタニア・モロッコと5カ国で1989年に経済協力機構であるアラブ・マグレブ連合を作っている。

【歴史】
古代フェニキア人が交易拠点として移住し、紀元前814年カルタゴ建国、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力・ローマとシチリア島の覇権を巡って衝突。

・紀元前264年に第一次ポエニ戦争。カルタゴは敗れシチリアを失い、スペインに拠点を伸ばす。
・第二次ポエニ戦争では名将ハンニバル・バルカ将軍が大活躍。象を引連れピレネーを越えてイタリアの北からローマを攻撃しローマを滅亡寸前まで追いやったが、スキピオに本国を攻略されて撤収。
・第三次ポエニ戦争で完全敗北し紀元前146年に滅亡し、チュニジアはリビアと共にローマの属州となりキリスト教も伝来。

そ の後西ローマ帝国の管区、ゲルマン系ヴァンダル人のヴァンダル王国→534年東ローマ帝国→アラブ人の侵入。アッバース朝カリフに臣従したアグラブ王朝・ ファーティマ朝・ズイール朝・ムワッヒド朝と続き、1229年ハフス朝。「歴史序説」を著したイブン・ハルドウーンが活躍。
→1574年オスマン帝国に→フサイン朝
→1837年アフメド・サダク・ベイがアフリカ初の立憲君主になり、近代化・西欧化を図る。
1861年イスラム世界となり1864年憲法停止。西欧化挫折→1878年フランスに宗主権・フランス侵攻・1883年フランスの保護領に
→1907年青年チュニジア党→憲政党→新憲政党
→1956年アル・アミール国王を条件に独立。
→1957年チュニジア共和国成立(王政廃止、大統領制)。初代大統領にブルギーバ。
→1974年カダフィーのリビアと合邦したがすぐに崩壊。
→1987年無血革命でベンアリが大統領に。→1991年湾岸戦争ではサダム・フセインを支持。
→2010年「ジャスミン革命」
でファド・メバザヘが暫定大統領に。

パレスチナ問題では第3次、第4次と僅かながらアラブ側で派兵。1982年PLO本部が2年のみ移転した事がある。イスラエルを承認しているがガザ紛争では非難している。イスラム教スンニ派が98%で、アラブで最も女性の地位が高い国になっている。

【感想】
紀 元前814年テュロス(今のレバノン)の女王エリッサが辿り着き原住民に分けて貰った土地。カルタゴ遺跡から今でもカルタゴ時代の軍港・商業港がはっきり と分かれていた事が眺望で確認出来た。ここからハンニバルがローマとの戦いに出陣して行ったと思うと感慨で胸が熱くなる場所だ。その後のローマ統治時代の バジリカ跡、アントニヌスの浴場もすぐ隣にあり見物出来た。

そこの隣の高台に大統領邸がありその方向の撮影は厳禁 だった。メバザ暫定大統領の政権の運営状況は知らないが、ベンアリ追放のジャスミン革命はウィキリークスやSNS・Twitter等による安上がりな政府 転覆の画策によるものと言って良いだろう。本当はベンアリの悪政というよりも米国金融システムの崩壊を阻止する為にFRB・米産軍複合体・ジョージ・ソロ ス達による石油独占、フリー・エネルギー移行阻止で石油高演出の意味合いが多いソフトな軍事作戦の初戦ではなかったかと推測している。

そ こから海岸線を戻りフラミンゴの群れを遠くに観ながらチュニス市街に。まだデモ対策の有刺鉄線が残っていたが道の両側で多くの人達が集ってお茶を楽しんで いた。まだ失業中の人も多くたむろしているように見受けられた。出港時間が迫り地元の土産物商店街でショッピングする時間が僅かしかなく小物をじっくり選 べなかったのは残念であった。



地中海クルーズ記:イタリア

2011年10月23日
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<始めに>
「MSCスプレンディダ号で行く浴槽付きデラックス・スイート客室で巡る煌きの地中海クルーズ11日間」を堪能して来た。
訪問先は皆初めての所なので,
【概要】で基礎的知識を確認し、【歴史】で史跡の歴史的背景、【感想】で最も印象的だった事を記録に留め今の日本で生きる自分の立ち位置の確認と言動への参考にしたいと考えている。

<行程>
成田→コペンハーゲン経由ミラノ→ジェノバ→ナポリ(ポンペイ遺跡)→シチリア島パレルモ→チュニス(カルタゴ)→マジョルカ島→バルセロナ→マルセイユ(エクス・アン・プロヴァンス)→ジェノバ→ミラノ→成田のコース。

<私の欧州旅行歴>
・ 私の初めての欧州旅行は8年前元気な時にスイスのツェルマット(マッターホルンの麓の街)に泊り標高3800mのクラインマッターホルンから北イタリア・ チュルビニアに滑って降りた時であった(その際パリにも立ち寄った)。→今回その方向をミラノ近郊から遠望出来て感慨ひとしお。

・次は06年モーツアルト生誕200年祭。オーストリア(ウイーン・ザルツブルグ)で全くの素人が本場のオペラを3つ堪能した。特にイドメネオのマグダレナ・コジェナーさんのファンに。

・3回目はEUに注目。07年ルクセンブルグ・ベルギー・オランダ・ドイツ(フランクフルトのみ)を回り、EU本部やECBを見た。域内を縦横に行き交う交 通量の多さに欧州の繁栄・統一の成果を実感。(振り返ればその時がユーロのピーク。今日のユーロ・欧州の危機は想像出来なかった→ただし昨今の日米マスコ ミが連日連呼するユーロ危機は存在はするが米国の財政危機隠しと表裏一体だと理解している)。ナポレオンの破れたワ-テルローの闘いの戦場跡も行った。ロ スチャイルドが情報網を生かして巨財を得て以来欧米国際金融資本の中核にのし上がる契機となった重要な場所だ。

・4 回目の08年はイギリス周遊。エジンバラ等にたなびくスコットランドの旗が印象的。イギリスとスコットランドの古戦場も印象深い場所だった。又、イギリス は国中、田舎までやたら「For Rent」の家の多いのにびっくり。大不況は始まっていたのだ。ロンドンのテームズ河畔にあるヘッジファンド界の雄マ ン・インべストメント社も訪問したが直後にリーマンショックが到来した。以降はマン社も大苦戦が続く。

ロンドン塔にあった、世界最大と言われる英国王室所蔵のダイヤモンド、コヒヌールの耀きに見とれる。東インド会社がビクトリア女王に贈ったもので、今はインドが英国に返還を求めている宝石だ。

<その後体調不良>
去 年ようやく少し回復したので近場の中国旅行(上海万博・大連・厦門)の3回で史跡を訪ね身体を慣らしていた。今春かなり復活した(と勝手に思っている)手始めに大震災後にトルコを周遊し、その自然・歴史・食料・人情・政治の独立性に感嘆。真の豊かさはGDPや工業化の程度だけでは測れないと強く実感し「先 進国」という言葉に大きな疑問を抱いていたが、それが確信に変わりつつある。

<旅行選定と結果>
体調がまだ万全でないので移動が不要で楽なクルーズを今回は選択。まだ行った事のないイタリアの中心都市やチュニジア・スペイン・南仏を巡れる事が出来るこのコースを選んだ。

出 発前はチュニジアのジャスミン革命やフランスのマルクール原発爆発事故で気を揉んだが、幸い予定通りの航海で特段問題もなく、闘い続きの地中海の歴史の一 端や有名な遺跡の持つ見る人を圧倒する力、イスラムと部分融合したキリスト教会の美しさ、今回は観賞出来なかった有名なミラノ・スカラ座やシチリア・マッ シモ劇場の存在感、各地の賑わう市場等を観賞・実感出来た素晴らしい旅となった。

<見どころ満載&豪華・快適さ満喫>

①ジェノバ
【概要】
イタリア最大の貿易港ではあるが、人口60万人(周辺含め90万人)の落ちついた街である。

ウォルター・P・ウェッブは「コロンブスとヴァスコ・ダ・ガマ以来の近代史とは、ヨーロッパによる北アメリカの開発による超長期ブーム」だと指摘している。カール5世の抱いたキリスト教世界帝国建設の夢が敗れた(利子率が低迷する時代)後に訪れた「ジェノバの世紀」(1557年~1627年)を築いたジェノバはその近代史の「海の時代」が始まる中核となった歴史上大変重要な都市である。数百年後その「海の時代」も限界に来て起きたリーマン・ショックの重大性を歴史上の大きな節目の到来(再び利子率が低迷する時代に突入)と捉える必要がある。今度は「海の時代」から再び「陸の時代」に転換していく時代を迎えているのだ。

【歴史】
紀元前6世紀頃から人類が居住。ローマ時代には天然の良港として海運業や軍港として発展した。1100年頃より自治都市となりジェノバ共和国として発展。アマルフィ・ベネッツイア・ピサと共に海洋国家として栄えた。
16世紀には欧州金融を支配
し、商工業も栄え重要な軍港であった。黒海貿易を独占し、クリミア半島南岸諸都市・コンスタンティノポリスの金閣湾北部・イベリア半島諸都市に植民地や商館を築き、ベネッツィアやオスマン帝国と覇権を争った

そ の後1797年ナポレオン・ボナパルトのフランス軍に侵攻され属国(リグリア共和国)に、1805年にはフランスに併合され、ナポレオン失脚後もウイーン 議定書でサルデーニヤ王国に編入され11861年のイタリア統一に至る。→いろいろな興亡があったので簡単には頭に入りにくいが、春にトルコに行っていた ので少しだけ繋がりが理解し易かった。

【感想】
16世紀の世界の中心と言って良い金融街の建物群が残っている一角があり、趣深い石畳や建築物の表示の渋さ、名器ストラスバリウスのある家等もさりげなく残り、坂道の建物の合間から見える港が往時の繁栄を偲ばせ渋く印象的な旧市街であった。
中心部のガルバルディ通りの名は19世紀にイタリアを統一した軍事家の名前なのでイタリア人で知らぬ人はいないとの事。そこにコロンブスの居住したという家も見る事が出来た。
尚、2001年にここでG8が開催された時はグローバリゼーションへの抗議行動で話題を呼んだらしい。その近代の欧米支配発祥の地とも言えるジェノバで起こった事は皮肉と言うか、現代イタリア人の本能が発達していて別の道を求めているのか。

②-1 ナポリ
【概要】
人口約100万人。世界三大夜景とか「ナポリを見てから死ね」と言われる程風光明媚な土地。輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々のイメージの元。

【歴史】
紀元前6世紀に古代ギリシャ人(アテネ人)により建設されたネアポリス(新しいポリス)がナポリの語源。長くローマ帝国の支配下だったが476年のローマ帝 国滅亡後流動的に。6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世がイタリア再征服。ビザンツ帝国の属州となり、660年ビザンツ系の公国に。
11世紀にはノルマン人が到来シチリア王国を建国し、1140年ナポリ公国もノルマン人の支配下に。
12 世紀は神聖ローマ帝国の支配下に。その後も、シチリア王国→フランス・ヴァロワ王朝→スペインに。1707年には、オーストリア・ハプスブルグ家→スペイ ン王子がナポリ王カルロス7世となり、その後ナポレオン・ボナパルトの兄ジョセフ等目まぐるしく支配者が変わっている。
1860年にジュゼッペ・ガリバルディに征服され、翌年イタリア王国に併合された

1995年、世界遺産(文化遺産)「ナポリ歴史地区」に。

【感想】
サンタルチア港に入港。本当に美しい!
ヌオヴォ城、卵城を見てボンペイへ。ナポリの問題のゴミはチョットだけ見ましたが観光区域はキレイで大きな問題ではないように思えたが…。出港の時も名残惜しく美しい港に見とれてずっと眺めていました。

②-2 ポンペイ
【概要】
世界遺産。79年のヴェスビオ火山噴火の火砕流で地中に。
18世紀発掘開始
噴火時はローマ人の余暇地として栄え人口約2万人。散策したローマ時代の街フォロは、大理石の柱に花・鳥・動物のレリーフ、肉・魚・パン屋・居酒屋跡、ローマ時代の浴場(内部がとても綺麗)等も残存。噴火の際溶けた被災者の遺体を復元した石膏像もある。

【歴史】
紀元前89年反ローマ側に加わったが征服され周辺のカンパニア諸都市と共にローマの植民地になっていた。ワイン醸造が主産業だったらしい。

【感想】
ポンペイ遺跡から20Km離れたヴェスビオ火山がくっきりと見える。有名過ぎる遺跡だが本当に2千年前の往時の繁栄を偲ぶ事が出来る、多くの人が引き付けられるのが納得のいく所だった。歩いたのは一部のみだが広大で快適で、時空を超えたような不思議な感覚を味わえる空間だった。

③パレルモ
【概要】
シチリア島の州都。独自な国際色豊かな文化を生みだした、中世シチリア王国の古都。

【歴史】
紀元前264年~241年の第一次ポエニ戦争で、カルタゴからローマの支配下に。(313年コンスタンチノポリスに首都を移す。その後395年東西ローマ帝国に分裂。476年のゲルマン人の侵入で)西ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国領となった。
9世紀にはイスラム勢力が侵入、965年陥落しシチリア全島がイスラム支配下に。パレルモは30万人、モスクも300余、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して中世ヨーロッパには見られぬ繁栄を極めた。
11世紀はノルマン・シチリア王国、神聖ローマ帝国、13世紀に仏アンジュー家に征服されるが反乱でナポリへ追い出し、スペインのアラゴン家支配下に。1479年以降スペイン副王が駐在。
スペイン継承戦争で一時オーストリアに渡るが1734年スペイン・ブルボン家カルロスがナポリと共に征服、王宮をナポリに。ナポレオンの侵攻で一時パレルモに逃れるがウイーン条約体制で両シチリア王国の王宮は再びナポリに。1860年イタリア王国に併合される。
第2次世界大戦で連合国軍がシチリア上陸作戦を行い爆撃で破壊された。近年、大聖堂、ノルマン王宮跡、教会等旧市街が再生・保存されている。

【感想】
高台の街モンレアーレも階段を上り大聖堂に。12世紀にノルマン・アラブ様式で建立。内部は旧約・新約聖書の場面が黄金のモザイクで描かれキリストのモザイクも圧巻だった。ティレニア海も展望し両側のショップも楽しめた。午後は市内観光。マッシモ劇場はゴッドファーザーも撮影されたヨーロッパ屈指の大劇場だが中に入れず残念。いずれオペラを観に来たいものだ。



トルコに学ぶ

2011年09月14日
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<始めに>

今年4月初旬に11日間のトルコ旅行に行って来た。それまでトルコの事はあまり何も知らず庄野真代の「飛んでイスタンプール」位しか思いつかなかったが、

①西洋と東洋の狭間で燦々たる歴史を持ち、現在は親欧米国としてNATO、欧州評議会等に加盟している。欧州と中東のイスラム諸国との仲を取り持ち、国際的に存在感を深めている国である事。
②イスラム教徒が99%のお国柄で、イスラムの雰囲気に触れてみたい事。
③料理も世界三大料理で美味と聞いている事。

等があり旅行先に選んだ。成田→アタチュルク国際空港迄トルコ航空で12時間で行ける国だった。

<長く深い歴史の宝庫。活気溢れる誇り高き国だった!>

イスタンプールとイズミール、エフェソス遺跡、パムッカレ、カッパドキアを巡った。

【イスタンプール】
ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側に分かれている1400万人の都市。ビザンチン帝国時代はコンスタンティノポリス、その後オスマン帝国の首都として繁栄を続けた。欧州側は金角湾を挟んで旧市街と新市街に分かれている。

この見所の多い街の中でも圧巻はブルーモスク(ス ルタン・アフメット・ジャミィ)と呼ばれるイスラム教寺院だ。天井の高いドームの内部装飾の青いタイルの美しさは息を飲む。ここは現役の寺院で多くのイス ラム教徒がメッカの方角に向けて参拝している中、観光客も受け入れてくれているのだ。(バリ島では外部からの撮影も許されなかったが)又この寺院は6本の ミナレット(尖塔)を持つのでも有名。(通常は4本で、他に6本あるのは聖地メッカだけだそうだ)

地下宮殿
の貯水池はビザンチンからオスマン朝にかけて作られたもの。ギリシャ・ローマの遺跡から運んだ柱を使っている。ボスポラス海峡クルーズを楽しみ、トルコが原産のチューリップの公園も散歩出来た。(オランダより綺麗だった)グラントバザールで買い物(値引き交渉も楽しい)し、夜はベリーダンスを楽しんだ。

最終日アヤソフィアへ。もとはキリスト教の寺院だったが1453年コンスタンティノープル陥落とともにイスラム教の寺院に作り替えられた寺院。2階にキリスト教のフレスコ画が残されていた。(完全に消してしまわない事に興味を抱く)最後にオスマン朝のサルタンの居城トプカプ宮殿へ。ハーレム跡と、宝物殿の49個のダイヤモンドで囲まれた86カラットのダイヤモンドは見物であった。

【イズミール】
トルコ第3の都市。エーゲ海の真珠と言われるリゾート地。夏になると欧州各地からの避暑で賑わうというが4月はひっそりとした中でホテルからのエーゲ海の展望は素晴らしい!の一語に尽きた。

【エフェソス】
紀元前11世紀にイオニア人が作り約10万人が暮らしていた都市の遺跡。当時の議会でもあった音楽堂(ソクラテスも演説した?)等目抜き通りを歩きタイムスリップを味わった。近くに旧約聖書にも描かれているという“聖母マリアの家”へ。

【パムッカレ(緑の城)】
広大な階段状の石灰棚で青い水が美しく眺望も素晴らしい。BC190年頃はヒエラポリスという街があったとの事。

【カッパドキア】
TV・ 絵ハガキ等で見た事があったが、巨大な1枚岩の城塞や奇岩群は数もスケールも行って実感して欲しい。奇岩の洞窟の中に作ったホテルにビックリしたが良いホ テルだった。別の洞窟住居に今も暮らす夫婦にお茶を頂いたり、BC400年頃キリスト教徒約2万人が暮らしたカイマクルという地下都市を尋ねたり。興味は 尽きなかった。

現在は原発もなく(計画はあるようだが)、周囲を黒海・マルマラ海・エーゲ海に囲まれ海の幸も豊富。土地も広大で麦・野菜・果物・オリーブに加え米まで取れる。収入もそこそこで本当に暮らしやすそうな魅力的な国であった。

<政治>

【建国の英雄ケマル・アタチュルク】
・ 1914~18年の第一次世界大戦中にオスマン帝国は中央同盟側で参戦。首都イスタンプールの喉元の街ゲリボルやアナファルタルに進行した英仏軍を食い止 め「アナファルタルの英雄」と名声を得る。その後も英連邦軍に抵抗を続けたが1918年10月末連合国とオスマン帝国は休戦協定を締結した。
・1919年連合軍の分割占領に反対運動がアナトリアで起きた際、反占領抵抗運動の指導者に。
5月19日、港町サムソンに上陸した日をトルコ共和国開放戦争開始の記念日としている。
・1920年アンカラで大国民議会を開催。議長として革命政権へまとめあげていった。西方からのギリシャ軍をサカリヤ川の闘いで撃退。
・1922年イズミールを奪還。国民議会でスルタン制廃止。
・1923年10月29日トルコ共和国初代大統領に就任。大統領暗殺未遂事件後、反対派一掃の為共和人民党の一党独裁体制を樹立。憲法からイスラムを国教と定める条文を削除。トルコ語の表記もアラビア文字を廃止しラテン文字に。

【ケマル主義=世俗主義・民族主義・共和主義】
トルコ共和国の基本路線。アタチュルクは成功した正しい独裁者として今も国父としてトルコ国民の深い敬愛を受け続けていて、像や廟、通りの名前、トルコリラの肖像等、行き過ぎた神格化と批判も出る位である。現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。

【エルドリアン首相】
2003年より25人目の59~61代首相。公正発展党。
昨 年5月パレスチナのガザ地区に支援物資を運ぼうとしていた船がイスラエルに捕えられトルコの活動家が9人死亡した件でイスラエルが謝罪しない為今月イスラ エル大使を国外追放した。又13日カイロでのアラブ連盟の会議で演説し、「イスラエルはその攻撃的姿勢で孤立するだろう」と非難している。

一方、中国にもトルコ系イスラム教徒である新疆・ウイグルでの騒乱に同情し「同化政策を止めるよう中国政府に求める」と申し入れている。

EUへの加盟交渉は始まったばかりで停滞している。米国の中東政策への反感もあり民族感情が高まりつつある。ただ国内のクルド人への人権抑圧問題も抱えており他国の人権問題への介入は微妙な立場にある。

この国の政治的立場は本当に面白く全く眼が離せないが、民族自立の面では日本と違い羨ましい。
日本とは対照的で、爪の垢を煎じて飲みたい位である。

<宗教>

【何故イスラム関心を抱いたか】
勿論、私も普通の日本人なのでイスラム教について知識も無く、縁もゆかりもな かった。ただ外国に行くとイスラム教の存在が大きい国も多い。最初はバリ島でイスラム教寺院の外部からのカメラ撮影を禁止された事に始まる。その後モルジ ブやマレーシアで接したイスラムの若者達は皆生き生きした優しい人達が多かった。又インドのカリカットでは礼拝の声が街中に響き妙に落ち着く感覚に捉われ た。その後中国の厦門でも泉州でもイスラム寺院が多いのにも驚いたものだ。マルコポーロより先に大航海した中国の鄭和はイスラムだったとも聞いた。

2001年の同時多発テロ以降、十字軍の話が持ち出されたりしてイスラムが敵でテロリストが多いという話には何となく違和感を持っていた。イラク戦争から10年、アフガニスタンも膠着から部分撤退の流れの中でこの戦争は米国のいうシナリオ通りで捉えていては一面的過ぎ、相手国やイスラムの言い分もキチンと把握しないといけないと考えるようになっていた。

【小室直樹著日本人のためのイスラム原論】
この著作は文句なしに多くの日本人に読んで貰いたい。「一神教の論理」を知らずして現大世界を語るなかれ!から始まり、眼から鱗の話が満載だ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも一神教であるが、イスラム教とキリスト教とは同じ一神教でも天地雲壌の違いがあるという。

イスラムでは、宗教とは法である。…法とは神との契約である。神との契約は宗教の戒律であり、社会の規範であり、国の法律である。この四つがまったく一致するのが宗教の理想であり、イスラム教はまさにそのとおりである。…
イスラムでは教えのエッセンスが「法を守れ」に縮約され、理解を絶するような教義は、一つもない。誰にも至極分かり易い…

一 度通読しただけだからキチンと語る事は出来ないが、キリスト教の原罪論およびイエスの贖罪による人間の救済、三位一体説、予定説、神の国マリア…と言われ てもピンと来ない。しかしイスラムの五行「五つの柱」は分かり易い。第一が信仰告白、第二が礼拝、第三が喜捨、第四が断食、最後が巡礼だそうだ。皆割合簡 単に出来そうである。
そしてどうやらこの五行はそれほど厳格過ぎるものではないようなのだ。例えば断食は全信徒の義務であるが、妊婦や子 供、或いは病人等は断食などしなくても、ちっとも罪の意識におびえる必要もまければ、憚ることもない。明確に定められた例外規定に従っていれば、規範を 破った事にならないのである。…この合法的例外をいろいろ聞くと実に納得のいく事が多いのに驚くのだ。

損害保険会社 で38年間勤めて来た私は資本主義の長所と短所を一応骨の髄まで沁み渡らせて来たと思う。2001年になって以来、いわゆる新自由主義に大きな違和感を抱 いてその問題点をささやかに指摘して来たが、その矛盾が極大に近付いた今、このイスラムの教えはとても大切な教えであると感じている。

<最後に>

勿論63歳にもなって無宗教の日本人で過ごして来た私がこれからイスラムに入信する事はあり得ないが、凄く共感した上記小室直樹著の次の言葉で締めくくりたい。

現代日本の病根は「無宗教病」にあり
イスラムを知る者は祝福される
世界の宗教を理解するからである
世界そのものを知るからである

以上




owljiiの素人談義