ロシア旅行(ボルガの船旅中心)とその後知った事
1.はじめに
ロシアは近くて遠い国だった。高校迄新潟で育ったので対岸のナホトカはいずれ行けるだろうと思っていたが縁が遠く、効率の悪い共産主義が残れる時代でも無かったしロシア国家破産危機もあり、興味が湧かなかった。66歳の最近になってようやく天然ガスを巡るオルガルヒの活動やプーチン率いるロシアの利権拡大・興隆ぶりを聞き、一度見てみたくなった。今回はモスクワからサンクトペテルブルグまで、途中キジ島等に立ち寄り乍らのボルガ川下り1800kmの旅を選び楽しむ事が出来た。折しもウクライナ(ロシアにとって中心的存在の一つだった旧ソ連の国。国家形成期はキエフの方が中心だった)を巡り、一極覇権の崩壊(ドル暴落)を食い止める為軍事力でロシアを抑えつけ逆に強化(ドル防衛)したい米国とこれに対抗してもう一方の極BRICSの連携を強化拡大させようというロシアとの大戦直前の軍事・経済の角逐が展開されているので、ロシア国内にも緊張が漂っているのかと思っていた。しかし少なくとも一観光客の眼から見る限りロシアは全くのんびりしたもので、道中ずっとどこでも観光客で賑わっていてかなり拍子抜けだった。お陰でロシアの豊かな自然・文化・芸術を堪能して充実した心が潤う旅を味わう事が出来た。今回ロシアの現状を見て感じた様々な事を、ロシア関連の世界史の基礎知識部分を確認し照らし合わせながら纏めておきたい。
2.旅の概要
(1)スケジュールと内容のあらまし
旅程は2014.6.20~7.2迄の13日間。テーマは「ショーロホフ号で行く世界遺産キジ島とロシアの母なる大河ボルガの船旅」であった。モスクワやサンクトペテルブルグ観光にも最低限必要な日程は確保されており、見るべき所は観て来れたと思う。
・大韓航空でソウル経由モスクワへ。空港の入国審査は行列は長かったが緩かった。市内で3泊(ホテル1泊・船中2泊)し観光した後、夕刻ボルガ川クルーズに出発した。ドイツ建造の船で乗客は200名余、日本人21名を除き大半がドイツ人だった。
・ボルガ川は両岸とも白樺やアカマツ等がずっと延々とほぼ同じ高さで綺麗に立ち並び、偶に森の中にダーチャと呼ばれる別荘や教会が点在して見えていた。途中ウグリチ、ヤロスラビ、ゴリツィー、キジ島、マンドロギーに立ち寄り観光ながら、川下りを存分に楽しんだ。船室は狭くシャワーと手洗いが一緒でちょっと驚いたが、慣れれば特段問題も無く、食事も昼夜ともコースメニューでおいしかったのでつい食べ過ぎ・飲み過ぎがちになった。船旅なので日本人の同行の方々から多くの旅行や人生の体験談を聞くことが出来て楽しかった。又イベントでドイツ人乗客との歌の交歓会で俄か合唱団員になり「百万本のバラ」や「故郷」を合唱したり折り紙を通じた交流の企画もあって、原生林の中をボッーとする暇もあまりないまま開始7日目の朝にサンクトペテルブルグに到着した。
・サンクトぺテルブルグではそのまま船中で2泊した。お目当てのエルミタージュ美術館やピョートル宮殿等の観光はいずれも期待に違わぬものであった。サンクトペテルブルク国際白夜マラソン?に出くわしたせいもあり、バスがかなりの渋滞に巻き込まれたしどこも観光客の行列が凄かった。本当に満足しきって3日目の夜、再び大韓航空でソウル経由関空へ帰国した。
(2)旅の見所
<モスクワ観光>
・初日 ロシアの歴史や文化の原点となった郊外の都市群「黄金の環」の代表格セルギエフ・ボザードへ。ロシア正教最大の聖地で世界遺産のトロイツェ・セルギエフ大修道院(モンゴルが支配した14世紀初めに建立)は、モンゴル支配に対抗するロシア諸公のまとめ役を果たした所。ロシアで最も尊敬される聖人セルギイが整備されたモスクワで無く、原生林でクマ・狼や冬は零下20~30度の中で貧苦に耐えながら聖書の教えをひたむきに求めて信仰生活を送った所だ。その聖セルギイの祝福を受けたモスクワ大公ドミトリー将軍率いるロシア軍がモンゴルに勝利した。ロシア軍の勝利を神に感謝しイワン雷帝が建て、代々の皇帝が戴冠式を行ったという白亜のウスペンスキー聖堂等を見学した。今回「黄金の環」の言葉自体も初めて知ったが、それぞれがロシア諸公国の首都として、最終的にモスクワが中心になっていった源流となった地域の事だったのだ。ソ連崩壊後、大修道院、モスクワ神学大学、聖歌隊指揮者、イコン画家等正教文化の中心地となっている。
・2日目 雀ガ丘から市街を一望後、チャイコフスキーが「白鳥の湖」を構想したという湖の近くのノボディヴィチ女子修道院や、エリツインやゴルバチョフの妻等の様々なレリーフの墓がある隣接の墓地を見たり、多くの壁画で有名な地下鉄(最近事故があったようだ)に入場して大混雑の中を皆ではぐれない様にしながらキエフ駅(ロシアは行き先が駅名になっている)等の多くの壁画を鑑賞した。又、1856年に豪商トレチャコフが創設したイコン画等の古代ロシア民族画を集めたトレチャコフ美術館を見た後、広大な赤(美しいの意あり)の広場を聖ワシリー寺院等を眺めながらゆっくり散策した。ここがソビエト時代以降毎年11月7日に革命記念軍事パレードが開かれている所なのか。
・3日目 雨の日に時間指定でクレムリン(城塞)見学。12世紀に木造の要塞で始まった。15~16世紀に現在の形になり、この時点でロシア正教の総本山ウスペンスキー聖堂等を建立した。プーチンの大統領府があるとは思えない程警備が手薄のように見えた。ロシア最古の博物館である「武器庫博物館」には1613年~1917年迄続いたロシア最後の王朝のロマノフ王朝の宝物等12世紀以来ロシアの皇帝が収集して来た世界の美術工芸品が沢山展示されていた。
<ボルガ川の船旅>
・4日目 古都ウグリチに夕刻着。イワン雷帝の死後流された息子ドミトリー・ナ・クラヴィーの名の付いた聖堂を見学した。
・5日目 ヤロスラヴリ 2010年に建都1000年を迎えた世界遺産(2005年)「黄金の環」最大の街。15世紀にはボルガ川を伝って、カスピ海、黒海、バルト海、北海を通じる一大交易都市として発展した。13世紀に創建された中世建築の傑作スパソ・プレオブラジェンスキー修道院へ。5千ルーブル札にある小礼拝堂を見て、修道院内の庭では鐘を使った生演奏を聴き、教会内で聖歌と民謡のアカペラを聴く。実力も音響も素晴らしかった。預言者イリヤ聖堂前を行く人。この聖堂はフレスコ画で名高くユネスコの世界遺産に登録されている。
・6日目 ゴリツィー キリルベロゼスキー修道院を見学。夜10時でも明るい白夜は初体験です。
・7日目 キジ島 欧州第2の湖オネガ湖に浮かぶ緑の世界遺産キジ島散策。幅500m、長さ7キロの細長い小島だ。木造のプレオプラジェンスカヤ教会は修復中だったが、緑の小道を歩みながら徐々に近づくと想像を上回る大きさを持った美しい教会だった。特に木製で作られた22個の玉ねぎと言われる部分はじっと見上げ続けても見飽きない美しい曲線をなしていた。補強工事中だったが中のイコノスタシスは鮮明で、中には曼荼羅風のものもあって驚いた.売店のお嬢さんは純朴そのもの。他の冬の教会や、ベル・タワー等の木造建築群も自然にマッチして美しく、先住民にノブゴロドからの移住者がキリスト教を伝えロシア正教会の教会を建設したのだ。ボルガ川の北のはずれなので流石にここまでは争乱が及ばなかったので残ったのであろうこの島の風景と聴いたベルの音は心と耳に深く刻まれて残っています。
・8日目 マンドロギ– 素朴な森に生産者自身が直売する民芸品店が多くあり良い土産を沢山見つけた。又ウオッカ博物館、馬術ショ-、民族音楽ショー等を楽しみながらのバーベキューは格別の味であった。
<サンクトペテルブルグ観光>
・9日目 聖ニコライ聖堂を撮影し、エミルタージュ美術館「冬の宮殿」へ。大混雑で並んで順番を待ちやっと印象派のゴッホ、モネ、シスレー等や、レンブラント、ダ・ヴィンチの作品のみを中国人観光客の行列割り込みの酷さに憤慨しながら慌ただしく見学できた。帰国後美術館で買った「エルミタージュ」を眺めて見たが、見ていないものがあまりにも多く、いずれ又ゆっくり鑑賞したいものだ。その後水中翼船で郊外のピョートル夏の宮殿で大噴水を見た。夜はパレスシアターで本場のバレエ「白鳥の湖」を鑑賞出来た。時代の変化からか原作の悲劇をハッピーエンドに変えていた。
・10日目 翌日はエカテリーナ宮殿へ。金箔の大きな部屋が続き勢威が窺えたが、順番待ちの観光客でごった返し、ゆっくりは見れなかった。1960年代に戦争の破壊から修復されたという豪華な大理石の階段からレリーフを見ながら入った。陶器のコレクションや美術品は戦乱を避けウラル地方に逃れていたという。「明るい回廊」の雰囲気を味わい大広間天井の「ロシアの勝利」も見上げ豪華な「食事の間」を見ながら行った「黄金のアンフィラーダ(続き部屋)」のハイライトの「琥珀の間」は写真撮影禁止だったが天井から壁まで美しい琥珀で埋め尽くされていた。「緑の食堂」も一度はこんな場所で食事をして見たいと思わせる空間だった。まだまだキリが無いので一度は行って見て下さい。今回は行けなかったエカテリーナ公園等も再訪して見たいものです。午後はイサク寺院に。帰途にネギ坊主が派手な「血の上の教会」を撮影した。夜は船内で有志のカクテル&ウオッカパーティーで名残りを惜しんだ。
・11日目 18世紀にスウェーデンの攻撃から守る為作られたというペテロパブロフスク要塞を見学。中央の大聖堂にはピョートル大帝やエカテリーナ2世等の皇帝達の棺が華やかに並べられていた(お骨は地下との事)。端の方にはレーニンやドストエフスキーを収容した獄もあった。いつかドストエフスキー「罪と罰」の舞台も歩いてみたいものだ。
3.ロシア旅行の感想
(1)ロシア正教の著しい復活盛況ぶり
ロシア正教はピョートル1世やソビエトによる受難の時代を経て完全に復活していて大盛況である事を目の当たりにする旅だった。ロシア旅行中毎日のように教会を訪れ、昔から表現様式が殆ど変わらないという美しいイコン画を観て、主要教会では聖歌の素晴らしい合唱を聴く日々が続いた。ソビエト時代の弾圧の跡は殆ど窺えないし、国民の日常生活に横3本のロシア十字架やイコン画が深く根付いているように感じられた。
<ロシア正教の歩み(概要)とロシアの歴史>
・988年 キエフ公国のウラジミール大公が正式にキリスト教を受け入れる。妃の出身国ビザンティン帝国の国教であったギリシャ正教を選んだ。当初はコンスタンティノープル総主教の管轄下だったが、その後ギリシャ正教が次第にロシア独自に発展していく。
・1236年 キプチャク・ハーン国の侵略が度重なり中心都市キエフは荒廃していった。ウラジミール大公没後は強力な支配者があらわれずモンゴルの襲来を受け支配されたのだ。
・1345年 モンゴル支配は教会には寛容で、荒野修道院運動でモスクワ郊外にトロイツェ・セルギエフ大修道院が建立される。
・1453年 ビザンチン帝国が終焉しモスクワ・ロシアが出現した。紋章を双頭の鷲に。1480年にはモスクワ大公イワン3世がモンゴル軍を撃退し250年以上続いた「タタールのくびき」が終りを告げた。
・1547年 イワン4世(雷帝)がロシア統一し皇帝に。しかしバルト海進出を狙ったがポーランド等との戦いに疲弊しその後も安定せず混乱の時代(スムータ)が続く。
・1589年 モスクワ府主教が総主教に昇格。ローマ帝国、ビザンティン帝国亡き後モスクワ大公国こそ「世界を支配するキリスト教世界帝国=第3のローマ」との思想も登場。文化・芸術の隆盛が始まる。
(17世紀~ロマノフ王朝時代 典礼の改革を巡り正教会は分裂。又、皇帝より教会が上位にあると主張した為正教会の力は弱まっていく)
・1721年 ピョートル1世(大帝)は総主教の地位を廃止。替りに宗務院を設置し皇帝の管理下に。美術と宗教を切り離させた。1712年サンクトペテルブルグをしロシア革命迄続いた新首都に。
(1762年即位のエカテリーナ2世と共に西欧の政治制度を吸収し侵略と併合で列強入り。文化・芸術も発展させコレクションはエルミタージュ美術館の母体になった。ボリショイ劇場も建立した。
18世紀末からはツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ、プーシキン等の文豪を輩出した。1812年ナポレオンとの大祖国戦争に終止符、1904年の日露戦争、第1次世界大戦で食料・燃料難となりロシア革命勃発)
・1917年 帝政が崩壊し、教会は2世紀ぶりに総主教制を復活させるが、それも束の間で、今度は「無神論」を掲げるソビエト政権により厳しい弾圧を受ける。
・1985年 ゴルバチョフのペレストロイカ政策で、再び最大の宗教団体として復活。
・1988年 政府が全面的に支援して1000年祝賀祭を開催。教会の権威が急速に復活。
日本は明治新政府により1868年の神仏分離令、1870年の大教宣布で廃仏毀釈が進んだが、その後の市民生活に占める宗教(特に仏教)の密着度会いは低いままである事と対照的だと感じられた。
(2)美しく素朴さを感ずる広大な国であった事
モスクワは緑も豊富でゴミも無く道路清掃の散水車も頻繁に見かけ、赤の広場も街並みも教会を中心にしてカラフルで整然としていて、本当に美しい首都であった。勿論ボルガ川の両岸の原生林は期待通り美しく、船からボッーと眺め続けいても見飽きなかった。サンクトペテルブルグは中心部の美術館・宮殿・教会の華やかさは格別だが、一方で自動車も多く道路の渋滞がかなり酷かった。街外れにはコンテナ風のやや粗末な住宅?らしきものの一角もあり気になった。自然や街もそうだが、教会音楽、バレエ、民芸品等の文化度が高く、人々も素朴さを感じさせる人が多かった。ロシアが他国からの侵略や度重なる戦争を繰り返し撃退して来た歴史の概要を知った今、米国との大戦争の瀬戸際に立たされていても割と平然としていられる理由が何となく理解出来た気がした。日本へのお土産は、どこに行ってもマトリョーシカがあっていくつかは買ったが後半はもういいと思って他の品を探したが、帰国後定番だがやはりマトリョーシカがロシア土産らしいと好評だった。ホフロマ塗りの親しさを表すというスプーンも喜ばれた。ただ今回の旅行先はロシアの殆ど全てのように思っていたが、地図で見ると広いロシアの中のほんの西欧よりの一部に過ぎない事も再認識した。
4.番外編(緊迫する国際情勢関連)
(1))欧米の経済制裁の影響は?
出発前に欧米によりロシアに経済制裁があった事は知っていたが関空で円をルーブルに替えていった。ところが少なくとも観光客への値付けは殆どがユーロであり、ルーブルで払うとレートに手数料がかかるのか割高になるので驚いた。ドイツとロシアの関係は表面上はともかく意外に密接な事の証左だろう。この問題で帰国後に大ニュースが待っていた。ブラジルでのBRICSの会合でBRICS開発銀行創設決定の報道である。これは戦後ずっと続いて来た米ドル・石油本位制への挑戦になるものであり米国経済にも大打撃を与える事になるので米国は絶対に座視し得ないだろう。欧米のロシア経済制裁の第2弾もあるようだし、今後どう展開していくのか経済に止まらず米国/NATOとロシアの軍事的衝突に至る事も充分あり得る大問題だ。100年前の第一次世界大戦、70年前の第二次世界大戦後初めての世界の覇権構造に大転換を齎す可能性が強い歴史的な出来事と思われる。小競り合い程度で辛うじて平和裏に進展していくのか本当に核戦争になるのか、世界は今瀬戸際に来ていると思う。
(2)ウクライナ政変はロシア攻撃の拠点作り
出発前に、ロシアの隣国ウクライナで暴動後のクーデター的政権交代で親米政権が誕生し、それに即座に対抗したロシアによるクリミア編入、東部ウクライナの親ロ派自治政府の発生、それを押し潰そうとするウクライナ政府軍の攻撃と、米国とロシアの間にかなり激しい角逐があった。旅行の間特にボルガ川クルーズ中は新情報も途絶えて久し振りにのんびりしたが、帰国後事態は緊迫度を増しとうとう7月17日にはウクライナ東部上空1万メートル超を飛行中のマレーシア航空機が撃墜されるに至った。攻撃したのがウクライナ政府か親ロシア側なのかまだ分からないが、私自身ははっきりした推論とその論拠は持っている。いずれにせよ、撃墜直前のイスラエルのガザ侵攻、マレーシア航空機撃墜、イラク北部のISISの攻勢は皆世界の覇権を巡る関連した動きである事は間違いないだろう。周辺国も全て各々多大な影響を受ける事は当然である。勿論日本の中国敵視策や集団的自衛権問題もこれらの動きと直結していて、米国ネオコンの指示に基づくものだろう。一般の日本人からすると信じ難いと思うが、米国は本気でロシアとの核戦争も辞さずの構えであり、中東ガザ攻撃やイラクの内戦やアフリカの資源争いに日本の自衛隊を下請けとして参戦させたいようである。米欧/NATOと連携して露中に対決し、米国から日本に対し一説では軍事費は20兆円、自衛隊員も沢山出すよう強い指示があるといわれている。本当はのんびりと川下りをしたり、こんな旅行記を書いていられるような平穏な場合では無いのだが。
(3)作家ミハイル・ショーロホフと手塚治虫
若い頃ドストエフスキーやトルストイ等の翻訳本を受験勉強そっちのけで読んだが、今回乗る船の船名のショーロホフは読んだ事が無かったので旅行前に短編を探し赤木かん子編の「戦争」(ポプラ社)に選ばれた「人の運命」という本を読んだ。ウクライナがソビエトの一員だった時代にドイツとの戦争(1941年~45年)に召集され人生を翻弄されるウクライナ出身の逞しく優しい兵士の物語で、戦争が人の運命を狂わす悲しみが心に響く名作品だった。ウクライナが地政学的にも本当に重要な位置にあるのは今も昔も変わらないようだ。同じ本に手塚治虫の「ぼくは戦争を忘れない/語り部になりたい」があり実際の被爆撃体験を基に人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家の暴力があった時代の事を語ってくれていた事も知った。昭和19年、勿論漫画は1冊も無かった時代、軍需工場への動員、空襲等について描かれていた。
4.終りに
大概どこの国に行っても一般の国民の多くは善良な人達の方が多い。ロシアはロシア正教会の影響なのか観光客の立場からなのか思っていたよりずっと純朴な人達しか会わなかった。しかしプーチンを支える人達の中にパミャーチと呼ばれる一団があるそうで、この存在があるので米欧/NATOの攻撃に曝されても今の所何とか対抗出来ているそうである。表面だけは自由な民主主義国の体面を装っているが、内実は昨今は特に隠しようも無くあからさまに米国のいいなりにさせられている日本の現状とは対照的だ。いくら天然ガスや北方領土の権利が欲しくても、米国と完全に敵対しているプーチン大統領との交渉が許される状況では無い筈だが、マレーシア航空機MH17の撃墜事故では米国の要請に拘わらずまだロシアの仕業と決めつけず非難をしていないのは注目される事だ。訪日の実現はもう無理と諦めざるを得なくなるのではないだろうかと思うが実現すると面白いのだが。私達も攻められてもかわす術を持って何度も復活する独立自尊の国になりたいものであるが、当面は軍事ではオスプレイの本土配備等本土の基地化進展、経済は消費税増税やTPPの多大な影響により弱者から順次脱落する社会が更に加速して、一層苦境に立たされていくだろう。しかしいずれの日かロシアの250年余続いた「タタールのくびき」ならぬ日本の「米国のくびき」から解き放たれる時が来るのだろうか。いずれにせよロシアは自然も宗教も音楽も文学もとても魅力的な国だった。その一端を見る事が出来て大変楽しく、心の糧になる旅行であった。
ギリシャ旅行(古代は神話と民主制国家の源、今は財政破綻のみ強調される国)で考えた事
1.はじめに
ギリシャにはおよそ3000もの島があるというが、私は3つの目的でギリシャ旅行では人気のエーゲ海で無くペロポネソス半島主体の小旅行を選んで行って来た。
①「若き日」に憧れていたがすっかり忘れていた古代ギリシャ文明・美術に直接触れる事。又、一時だが目指したオリンピックの発祥の地を見る事。
②「民主主義」の淵源と言われる地で、そもそも古代ギリシャの民主主義とは本当はどんなものだったかを考え、現在の日本の「民主主義(もどき?)」の問題点を再認識し今後の参考にする事。
③財務省は消費税増税の為に「ギリシャの財政破綻」を盛んにPRして一般の日本人を騙している。外国に多大な借金をしている財政困窮のギリシャと90数%が国内で消化される国債で賄う日本の財政の課題との関連性は全く希薄であるとの論点を強化する事。
(1)ペロポネソス半島とアテネ歴史の旅
最近のギリシャ旅行はエーゲ海巡りやメテオラネス修道院等の方が人気があるようだが、今回は古代ギリシャ神話や民主政治の発祥の地として輝かしかった歴史の舞台の中心地である「ペロポネソス半島とアテネを巡る旅」の企画は希望にぴったりだったので飛びついた。
①オリンピア遺跡は今もオリンピックの採火をするヘラ神殿前の採火灯や2004年のギリシャ五輪の時も円盤投げ会場として使われた古代競技場もあるとの事で、一度は行って見たかった。
②昔良く父に聞かされたが今は死語のようなスパルタ教育のスパルタは、アテネと拮抗して戦い続けて消耗した為双方共倒れとなり、その後長い間東ローマ帝国やオスマントルコ、ドイツ出身の国王等にずっと支配され続ける結果を招いてしまい、長い主権喪失期間を経てようやく1829年に独立した事や、独立後も2度の世界大戦、戦後の内戦等動乱続きで大変だった歴史の一端に触れる事。
③何と言ってもアテネでパルテノン神殿を見て往時の勢威を偲びアクロポリス博物館、アテネ考古学博物館で古代ギリシャ文明や美のレベルの高さに触れる事。
④バッセのアポロン神殿、ギリシャ正教会の聖堂、ティリンス遺跡、エピダウロス遺跡、ミケーネ遺跡、コリントス遺跡等でギリシャ神話の骨格となる舞台を見て、その後の争奪の歴史にも触れて、欧米の文明文化の起源の地がその後どのように展開していったのかに触れるのが目的だった。
(2)古代の民主制国家とはどんなものだったのか。現代にどんな影響を齎しているのか。
3年前のトルコ旅行でエフィソスに行った際ソクラテスも逗留した舞台でもあった話を聞き、昔読んだプラトンの「ソクラテスの弁明」を帰国後読み直して見てギリシャに行かなければと思った。又今回のギリシャ旅行ではプラトンの「国家」が今でも欧米の国家戦略立案者、特にネオコン思想の中心と言われるハーバード大学でも必須な基礎知識となっている事を知り、帰国後初めて読んで見た。昨今の日本の政治状況を見ると「民主主義は理想の制度では無い」という疑念が深まるが、約2500年も前のプラトンの「国家」では民主主義がファシズムを生み出し易い制度である事が語られていて、今の日本や世界各地の実状そのものであり、描かれていた事や人物像は現代にもそっくり通じるものであり自分のようなタイプの人間も批判の対象になっていたりして本当に驚いた。更に日頃日本には民主主義ですら実はちゃんと根付いていないし、むしろ後退している現状である事を再認識させられているのだが(司法・検察当局の権限が強大過ぎ、かつ恣意的運用も強過ぎて冤罪も多い)。日本でも地政学や国際関係論といった学問がもっと深く拡がって視野の広い人物がそれを政策に生かして国際協調を大切にしていかないと、折角アジアで唯一植民地化しなかった国なのに、時を経て「国家」に描かれたように権力者が劣化して政治(軍事)も経済も表向きはともかく実質的に完全に植民地化されてしまう危険性が強まって来ている。
(3)ギリシャと日本の財政事情は全く別物である
今日の一般の日本人には「ギリシャは財政破綻した国」であり「日本も消費税を増税しないとギリシャのように財政破綻してしまうから大変だ」という誤った認識が完全に刷り込まれて、ギリシャは財政破綻した貧しい気の毒な国と考えている人が多い(尤もそんな関心すらも無い人の方が多いが)。しかし、このプロパガンダは消費税増税を認めさせ権益を更に強化する為に財務省等がマスコミを動かし行われたものであり、全く関係もないギリシャにとっては引き合いにされて迷惑な話だろう。ギリシャは2010年にユーロ危機が叫ばれてから4年目を迎え予想通り破綻もせず今の所危機は沈静化している。ユーロ圏にとってギリシャは歴史のルーツであるという意味合いに加え、観光地・別荘地として無くてはならない存在であり、又オリーブやぶどう等の食料も豊富で、ドイツ等からの債務返済要求も当初の厳しい姿勢が徐々に緩やかなものになって来ているようである。ドイツ・フランス中心の欧州にとってギリシャは必要不可欠な国なので決して切り捨てられたりはしないだろう。
一方、貯蓄大国である日本の消費税増税の本当の目的は①消費税の輸出大企業への還付金により輸出大企業の輸出競争力を支援する事 ②法人税減税分に充てる事とが大半の目的である。この事は、これまでの消費税導入後の税収の推移等を調べれば明確に理解出来る事だ。又、「税と社会保障の一体改革」や「高齢化社会での社会保障費の増大に対処する為」という一見尤もらしい大嘘も消費税増税の決定と併せて年金制度等あらゆる社会保障制度の改悪が続く事で隠しきれなくなりつつある。アベノミクスは金融財政で無理やり株を急浮上させ少数の不動産・株式保有者は大いに潤い喜んだが、本当の成功である景気回復に必要な第3の矢の成長力・国際競争力の回復には繋がっていない。今後、経済特区で外国資本を誘致したり雇用条件を自由化して切り下げたりしても本格的な景気回復は困難である。遠からず(中国発になるか?)又々バブルが崩壊し、アベノミクスの失敗が明確になる確率は限りなく100%に近いと思う。一般国民も嘘を信じていたと皆気付く事になるだろうが、その時に後悔してももう遅いのだ。それにしても一般の日本人が同じ嘘に何回でも騙され続けるのも悪く、もう庇いようが無いと半ば呆れ半ば諦めて突き放して見ているしかない。
確かにギリシャの財政事情は悪くユーロの信認を崩しかねない存在のようだが、それとてドルの基軸通貨性を守る為に米国がゴールドマンサックスが中心になってユーロを相対的に弱体化さす為にギリシャを材料にして攻撃を仕組んだ事は知る人ぞ知る公然の事実だ。この状況を利用した日本の財務省は「消費税増税によって自らの権益を拡大する為」だけに、先進工業国で国民の貯蓄が著しく大きくリーマンショック時等も安全通貨としてドルも避難してくる程相対的にはまだ財政が健全な日本と、農業・観光国でドイツを始め他国からの借金比率の高くなりすぎた小国ギリシャでは他の条件は全く違う事を百も承知なのに「GDP対比の政府の債務比率の高さ」のみを取り出してマスコミを通じて多くの日本人の将来不安を煽り、「ギリシャのようにはなりたくないから何とか財政破綻を免れる為、辛かろうが増税に甘んじて社会保障制度を守ると共に子や孫の将来も守っていくべきだ」とマスコミを使って洗脳してしまっているのが実状だ。ギリシャの現状の一端を理解して、「日本の財政問題はギリシャとの関わりで無く独自な問題として考えるべき」という認識が必要である。本当に騙されるのもいい加減にして欲しいものだが、このまま国債増発と公的年金による株式買い支えだけで株高を演出しているとインフレリスクが高まり年金世代を中心に大きな負担増に繋がっていき弱者の脱落が消費支出の縮小、社会の不安定化に繋がっていくだろう。一部で喧伝されているが本来は遠い筈の、ヘッジファンドの狙う国債の暴落や金利急騰等の最悪の事態も視野に入りだして来るかも知れない。
2.旅行日程(2/23~3/3)
第1日目 関空~イスタンブール経由アテネへ
乗り継ぎが慌ただしかった。
第2日目 アテネからコリントス経由オリンピアへ
今回の旅はゆったりとした大型のバスでペロポネソス半島中に麓から山上まで連なるオリーブ畑とぶどう畑を見ながら走り回る旅だった。2004年のアテネオリンピックの時に作られたと舗装道路は驚く程整備されており、トンネルも片側通行で2本ずつ作られておりオリーブが美しいので快適だった。見所は1893年に掘られたコリントス運河だった(現在は小さな観光船が通れる程度)。
第3日目 オリンピア遺跡、考古学博物館見学後ギティオへ
・オリンピア遺跡はBC776年~AD392年迄約1000年間ゼウスへの奉納競技が行われた場所。遺跡中が野生の花々とオリーブ等の木々に彩られレスリングや競技場(2004年のアテネ五輪でも投擲競技が行われた)等各施設が古代そのままに残っていた。ゼウスの神殿や今も2020年の東京五輪でも聖火を採るヘラの神殿も時空を超えて厳かに存在していた。
・オリンピア考古学博物館 祭典の際に持ち寄られた奉納品が多くあった。ゼウス神殿の破風の神々のレリーフも見事なものだった。
・半島の中央部の全く人里から離れた山上にあるバッセのアポロン神殿は、BC5世紀に作られたという。ここがギリシャ最初の世界遺産になったそうだが訪れる人も稀な(私達ともう1グループだけ)場所にあった。傾いたドーリア式の円柱は素晴らしく、古代に素材をよくぞここまで引き上げて来たのものと驚いた(奴隷的存在が多くいたとしか思えない)。現在は予算の問題もあるのか、ゆっくりと時間を掛けて本当に気長に順次補強修復していくそうである。
第4日目 ギティオからモネンヴァシアへ
・静かな港町ギティオに2泊。
・モネンヴァシアは6世紀頃にビザンティン帝国により要塞化された街。欧州~コンスタンティノープルや黒海に向かう海上交通の要所であった。ヴェネティア共和国とオスマン・トルコ帝国が奪い合った為、極めて狭い要塞なのだが、ヴェネティア様式の教会(エルコメノス大聖堂・イコノスタシス=聖なるイコンの障壁)とモスクやハマムが混在していてとても印象的だった。
第5日目 ギティオから世界遺産ミストラ遺跡、スパルタの街見学後港町ナフプリオンへ
・13世紀の十字軍の要塞ミストラ遺跡を散策。ソフィア教会の聖母マリアの礼拝堂でマリアのフレスコ画やパンタナス修道院の奇跡のイコン等を見ながら、アーモンド・ムスカリ・アネモネの咲く道をゆっくりと下った。
・スパルタは市街は白く綺麗な建物が続く街であったが、往時の遺跡は全く何も無くローマ遺跡だけが僅かに残り、その下を発掘すればスパルタの遺跡がある筈?との事でがっかりした。
・ギリシャ独立時の第1首都であったというナフプリオンで泊った。
第6日目 ティリンス遺跡、世界遺産エピタウロスの円形劇場見学
・シュリーマンによって発見された古代ミケーネ文明(紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展)の第2の重要な地、ヘラクレスの生誕地とされるティリンス遺跡見学。大きな石積みの建築が印象的だった。それにしても1822年生まれのドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンは、ホメロスの『イーリアス』の研究によるトロイの発掘に止まらずいろんな地で活躍し、考古学者としてだけでなく実業家としても後半はクリミア戦争でロシアに武器を密輸して巨万の富を得る等、波乱万丈な人生をおくったものだ。
第7日目 ミケーネ遺跡、コリントス遺跡見学後アテネへ
・アガメムノン王の父アトレウスの墳墓見学後、ミケーネの獅子門からスタートし、王宮地区へ。シュリーマンが黄金のマスクと19人の遺骨を発見した円形墳墓A,謁見の間、玉座を観た。この巨大墳墓の主はアガメムノンで無い事は分かったが、誰のものかまだ分かっていないそうだが考古学にもまだまだ未開の事が残っているものだ。
・古代ギリシャでアテネやスパルタと並ぶ主要都市であったコリントス遺跡の博物館には古代ギリシャからローマ時代の出土品が展示されていたが、ギリシャ時代のものがローマ時代以降のものに比べて圧倒的に優れていると感じた。
・神殿E、アゴラ、商店街、ピレーネの泉、一枚岩で出来たアポロン神殿も見学。
第8日目 アクロポリスの丘、新アクロポリス博物館、国立考古学博物館見学、夜イスタンブールへ
・早朝遂にアクロポリスへ。まだ他の観光客も少なくゆっくり鑑賞出来た。音楽堂・プロピレア・アテナ神殿・パルテノン神殿へ。絵葉書等では到底この「丘の上の都市」アクロポリスの偉大さ美しさは充分伝わらない。あまりにも有名だが意外にあまり多くの人は観ていないこの地は素晴らしく、やはり優先順位の高い必見の地だと思う。第2次世界大戦では空襲もされたそうだ。
・次いで隣接の新アクロポリス博物館へ。2009年に改装したそうで、新石器時代から古代ギリシャの土器や美しい彫像が沢山あった。エレクティオンの姉妹たちや美しいレリーフはまだ大英博物館にあり返して貰っていないが、以前は返しても飾る場所が無いだろうと言われていたが、今はいつでも展示出来る立派な博物館も出来ている。イギリスとの今後の交渉でギリシャの希望通りここに戻った方が収まりが良いと思う。
・アテネ考古学博物館では有名なミケーネの黄金のマスクの輝きは別格であったが、他にも美しい彫像の数々に魅了された。
第9日目 イスタンブール経由で帰国
3.今回知り得た主な事と感じた事
(1)古代ギリシャ神話の諸神々の驚くべき伝承の数々
ギリシャ神話の神々の話や系譜を聞くと、その奇想天外とも言える神話に驚かされる。ホメーロスの神話を読んだ事は無いが、ゼウスもヘラクレスもアキレスも、ヘラもアフロディティーも、皆現代人の常識を遥かに超えた神々だったようだ。今後もトロイア戦争等について最低限の知識を積んでいくともっと面白い世界が開けていくのだろうが。
(2)アテネによるメロス島事件の存在
帰国後プラトンの「国家」を読んでメロス島事件の事を初めて知った。→古代民主主義国であったアテナイではひどい衆愚政治がまかり通っていた。ペロポネーソス戦争の間にも、メロス島事件と呼ばれる大虐殺があったのだ。メロス島はミロのヴィーナスが発見された小さな島だが、30年戦争中にスパルタ側についたために圧倒的に優勢なアテナイ軍が占領した。アテナイの議会では、島民僅か500名のメロス島の男の市民は全部死刑にし、女や子どもなどはみんな奴隷にしてしまえと提案が出されて可決した。すぐ命令書をもった使いが船で出発したが、1晩寝て冷静に考えるとりひどい決定だったと思いあたり、もう1度その命令を中止するための使いの船を追いかけて出したが間に合わず。遂に38隻の軍船とおよそ1万人の兵によりメロス島の男の市民は全員殺されてしまったという話だ。
(3)米国=1%対99%、日本=正規対非正規雇用、欧州=ギリシャ問題の本質は同一の問題である事
水野和夫氏の近著「資本主義の終焉と歴史の危機」によると、資本主義の米欧金融資本の発展は行き着く所がもう無くなって成長出来なくなってしまっている。もはやフロンティアの地は無くこの所は金融バブルを作る事で延命してきたが、自国や勢力下にある国や自国民から「蒐集」するしかない段階に到達しているという。水野氏は「蒐集」という婉曲な言葉を使っているが「収奪」の事だろう。今は米国を主要拠点にしている国際金融資本家の暴走は止まらず、ネオコンによるネオナチ等を使った世界の単独覇権維持の為の動きは今はウクライナで表出している。
(4)接したギリシャの印象
ペロポネソス半島は緑豊かで人口も少なく、食べ物は食材は勿論オリーブを多用した料理も素朴・適切で、さっぱりして実に美味しかった(世界3大料理と称するトルコより野菜も魚もおいしかった)。観光地はまだ人もまばらで寂しい分、土産店の対応も丁寧・親切で良い手軽なものをじっくり選べた。未だに2時から4時または5時まで店が閉じており、まことにのんびりとしていた。遺跡には犬や猫が野生で暮らしていて、動きが俊敏で姿も美しく観光客にずっとついて回って人懐こかった。財政危機後の労働条件の悪化に反対するデモも頻発しているとの事だが、それ程激しいものではないらしい。ギリシャ正教はオルガンが無い為皆小さい時から教会で歌っているので声が素晴らしい人も多いようだ。イコンも独特で信仰が生活に根付いている様子だった。高校は勿論少数精鋭の大学も最近まで授業料は無料だったとの事。ただ若者の失業率が高く、仕事を求めて海外に行く事が大変増えているのが最大の問題との事だったが今後の推移も注目だ。
4.終りに
今世界中で若者の雇用が難しくなっている。日本の非正規雇用問題と本質が変わらないというギリシャ問題は、しかしギリシャ正教への信仰や自然・陽光の齎す恵み、のんびりした気性、長年の隷属の下での抵抗力等のお陰で割合に幸福度は低くないように感じた。この点一部の強者以外の人間を不幸にする日本というシステムとは違うようで、宗教や哲学、自然環境、労働環境等と幸福度の相関関係等について今後の考察が必要だと思う。
イスラエル旅行と、その後知った事
<はじめに>
今の世界情勢に多大な影響力を及ぼすイスラエルの実像を少しでも観たい、行けば何かが分かるだろうと思い、2013年2月末から10日間行って来た。旧約聖書も新約聖書も読んだ事は無いが、3つの宗教の聖地エルサレムに行きそのイロハも知りたかった。行って見ると思いがけなく美しい風景や、豊富美味な食事も良かったが、何といっても古代から現代に至る壮大な歴史・宗教の渦巻が強烈であった。旅行中やはり実力のある凄い国だと思うようになっていった。ただ他の旅行先の時は、帰国後1カ月程で旅行記も無邪気に纏める事が出来たが、イスラエルだけは何かまだ本質的な理解が足りな過ぎると感じ何も書けなかった。歴史・宗教についても知識不足だし、政治・軍事状況は錯綜しているので表面的知識だけでは不十分で、余程良く見極めないと安易に語れない問題も多く、帰国後に知識の確認や補充が必要でした。10か月経過してようやく最低限の情報の整理と自分なりの納得が出来たので現段階の到達点として纏めて、やっと辿り着いた基礎的判断材料としておきたい。
折しも、最近イスラエル中銀のフィッシャー前総裁が来年2月にFRBの副議長になるというニュースがあった。サマーズやバーナンキを指導した人らしいが、ユダヤ金融資本主義が裏で世界を支配しているという風説がまるでその通り表に現れたようなニュースだ。金融や政治についてちょっと知れば、世界は我々一般人の想像を超えたレベルで極く少数の権力者への集権化が進んでいる事が見えてくる。日本でも日銀の株主、日本の株式会社の株主構成や提携先を見ればおぼろげながら実態が分かってくるし、具体的事例を探して挙げる材料に事欠かない。又、日米欧のマスコミを支配していて僅かでもその実態への言及や批判を封じ込めようとしている。しかし、少人数の権力者集団が銀行、軍事力&検察・警察を握りながらマスコミを通じ情報統制を強化しようとしている実情を全て覆い隠す事は難しいだろう。現在米国ドル・石油本位制による単独覇権維持が難しい微妙な局面を迎え、激しい角逐が続いている事を知る人も少なくない。この問題の根底と今後の見通しを把握するのに良い考える材料を提供してくれる国がイスラエルだと思う。今回見た事・知りえた事を繋ぎ合せ、複雑極まりない世界の歴史・宗教・政治軍事状況に強い影響を与えているイスラエルが一体どんな国か、その一端でも正しく認識して、その力に圧倒されるだけでなく日本の美風・大切なものは何なのかを再確認して守っていく手掛かりにしていければ良いと考えている。
<旅程と概要>
第1日 関空→トルコ航空でイスタンブール経由テルアビブへ
・テルアビブ 空港は賑わっていた。玄関口にベン・グリオン初代首相の像がある。直ぐに空港から北へ走行したバスの両側はずっと菜の花が一面に群生していて、美しかった四万十川や宇佐神宮の川岸・指宿等の菜の花程鮮やかではないが、これだけ連綿と長く続く菜の花畑を見るのは初めてで、本当に綺麗な国に良い季節に来たものだと感激した。
第2日 テルアビブ着→アッコー→ハイファ泊
・カイザリア テルアビブから北へ40kmの所にある紀元前後、初代ローマ皇帝アウグストゥスに従っていたユダヤのヘロデ大王が築いた街で、ここからペテロ・パウロがローマへ向かいキリスト教の布教を始めたとの事だ。美しい地中海が眩く目に飛び込んできて海岸の間近にある円形劇場跡や導水橋跡等を見ながら散策し、春風を楽しんだ。
・アッコー 交通の要衝にあるこの街は歴史上十字軍とイスラム等の攻防・戦闘が繰り返された小高い眺望の開けた丘にある。十字軍の要塞も残っていた。現在は残存パレスチナ人が1/3居住しているが高い所はユダヤ人、低地がアラブ人と居住地が分かれているそうだ。オスマンの旧市街は世界遺産になっているが通過しただけだった。
・ハイファ 地中海沿いの港湾工業都市で建国以前から大規模な港があった。第1次中東戦争(1948~49年・パレスチナ戦争ともイスラエルは独立戦争とも呼ぶ)の激戦地。直近では2006年第2次レバノン戦争でレバノンから多数のミサイルが着弾した地だ。
見晴らしの良い斜面に建つ世界遺産バハーイー教の世界センターにも立ち寄る。信徒数は189ヶ国46の属領に公称600万人。布教国数ではキリスト教に続き世界で二番目。モーゼ・キリスト・モハメット・釈迦・ゾロアスター全てが啓示者とする宗教もあるのだ。
第3日 ハイファ→メギド→ナザレ→ガリラヤ湖畔泊
・メギド 古代の有力都市国家であり、聖書から解釈するとこの地がイエス率いる光の勢力とサタンや反キリスト的集団による闇の勢力が最終決戦を行うハルマゲドンの地だそうだ。紀元前15世紀のエジプト・トドメス3世とカナン軍等多くの戦いの舞台だったところ。
・ナザレ 聖母マリア受胎告知の街。受胎告知教会と聖ヨセフ教会や、イエスが初めて水をワインに変える奇跡を起こした!というカナの婚礼教会をゆっくり見学した。
第4日 ガリラヤ湖畔
・パンと魚の奇跡の教会 二匹の魚と五つのパンをイエスが奇跡をおこして5000人に食べさせたという「パンと魚の奇跡」 (ヨハネ 6章5~13節)の教会は丘の上の小さな美しい教会でした。キリストは水をワインにしたりパンや魚を増やす奇跡を起こした事になっているのか!イスラエル旅行中ずっと世界各地からの年間800万人というクリスチャンの巡礼者等で溢れ返っていたのに驚いた(危ない国と思っているのは日本人だけ?)が、ここでもアフリカの団体等皆本当に嬉しそうに記念写真を撮っていた。(蛇足→私の家に櫻井陽司の「パンとワイン」の絵があり、毎日眺めています)
・山上の垂訓教会 新約マタイによる福音書第5章から7章にある、キリストが山上で弟子たちと群集に語った教えの地で山上の説教と言うそうです。ここからガリラヤ湖を眺めながら花々の咲く中を1時間程下る知る人ぞ知る散策路は心地よく至福の時でした。
・ゴラン高原 ゴラン高原といってもその南端の中腹でガリラヤ湖からすぐの所です。鮮やかな赤色の野生のケシが至る所に点在して咲いていて怖いイメージとはかけ離れた美しい高原でしたが、道中の藪の中にシリア軍戦車が放置されていました。
・ガリラヤ湖 静穏な湖を遊覧船でゴラン高原等を眺めながら30分程回遊。爽やかな船上でパン粉に寄りくるかもめと遊びました。
第5日 エリコ→クムラン洞窟→エンケボック泊
道中ガリラヤ湖の下流でキリスト教信者の洗礼の様子を初めて見ました。
・エリコ 紀元前8000年に周囲を壁で囲った街が出来、世界最古の街とも言われ標高は海抜マイナス250mという。旧約の預言者ヨシュア記で、ヨシュアがカナン人を攻め、エリコの街を占領しようとして7日目に角笛をふいたら城壁が崩れたので侵攻して破壊したという話があるそうだ。ここが小室直樹氏がユダヤ教の本質について述べる時に良く引用するあのヨシュア記の舞台なのか。
・クムラン洞窟 クムランの遺跡は死海の近くにあり、洞窟から死海文書(死海写本)が発見(1947-1956)された。この発見によって聖書テキストが時代を経てどれほど変遷しているかの確認が可能になったとの事。死海文書以前に知られていた最古のヘブライ語写本は925年頃書写のアレッポ写本だったが、それを千年も遡ったのだから「二十世紀最大の考古学的発見」と言われているそうで、その洞窟を麓から遠望した。
第6日 マサダ要塞→死海浮遊体験→エンケボック泊
・マサダ要塞 死海西岸近くの古代ローマ・ユダヤ属州時代の難攻不落の要塞で2001年世界遺産に。エルサレムに次ぐ人気の観光地でロープウエイで頂上の要塞に上る。ユダヤ人全滅の悲劇を再び繰り返さぬようイスラエル国防軍の入隊式がこのマサダ頂上で行われ国家への忠誠を誓う式典の様子は日本でも報道されている。66年にティトウス率いるローマと戦争が始まり70年にエルサレムが陥落した後、逃れたユダヤ人967人がエルアザル・ベン・ヤイルに率いられてマサダ要塞に立て籠もった。ローマ軍1万5千人がこれを包囲し2年近く抵抗したが73年に遂に陥落した。その直前にユダヤ人たちは「投降してローマの奴隷となるよりは死を」との記録を後世に残す為の2人の女と5人の子供を除いた全員が集団自決した。73年のローマ軍による破壊後は長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人研究者が発見した。砂漠の真ん中の切り立った岩山の頂上から見渡す風景は壮大&異様で、そこで見聞きする歴史の壮絶さにと共に息を飲むしかない。忘れられない強烈な印象に残る場所でした。
・死海 死海での浮遊体験は宿泊するロシア系経営のホテルの裏口からすぐ行けるプライベート・ビーチで、浮遊は本当に面白かった。最初2~3回ひっくり返るが、慣れると手でかくと面白いように後ろに進む。ミネラルが多くリウマチにも良いという事で体の水分が不足してくる限度近くまで楽しんだ。去年ヨルダン側の死海を楽しんだ若い女性が、この浮遊体験をする為に又わざわざ来たというのも理解出来た。夕食後のショーにはロシア人(系ユダヤ人?)ダンサーが出演していて、イスラエルはロシア系ユダヤ人が多い事が実際に良く分かった。
第7日 マムシット→テルアビブ→ヤッフォ→エルサレム泊
・マムシット 古代ナバテア人の隊商都市で世界遺産。折よく近くで放牧ラクダ10頭程がのんびり砂漠の雑草を食んでいた。ヨルダン側と国境に関わりなく暮らしていたベドウインの生活の一端に触れる事が出来たが、多くは追われていなくなったそうだ。
・ベエル・シェバ ネゲブ砂漠最大の20万人弱の都市で建国以来アラブ諸国・ソ連・エチオピアからの入植者で成長。この砂漠のオアシスの街の近くにある世界遺産のアブラハムの井戸へ。紀元前1000年以上前に掘られたものとの事で中を覗いて来た。
・テルアビブ バウハウス建築の白い美しい建物がある世界遺産で4千軒もあるという。ナチスが権力を掌握した1933年以降東欧、ソ連等から難民として流入した中に建築家・建築業者・職人が多くいたとの事だ。代表建築はロスチャイルド大通りに多かった。
<3つの宗教の聖地エルサレム>
夕方エルサレムに向かう。標高800mの小高い丘にある為道中は上りが続き、ここでも途中に第4次中東戦争のアラブ軍のタンクが放置(展示?)されていた。ユダヤ人が住む西エルサレムとアラブ人居住区であり旧市街を含む東エルサレムがあり、東エルサレムはパレスチナ自治政府も領有を主張し、パレスチナ独立がなった場合の首都と規定している。行くまではイスラエルの首都はエルサレムと思っていたが国連は認めていず、テルアビブを首都としているそうで意外であった。第1次中東戦争でヨルダンの支配下になったが、第3次中東戦争でイスラエルが占領し、東西エルサレムは一つの市となった。古代イスラエル・ユダ王国の首都でもあった地だ。
第8日 聖地エルサレム観光→エルサレム泊
・嘆きの壁 紀元前10世紀頃既に神殿があったが、紀元前20年ヘロデ大王時代に大改装したエルサレム神殿の外壁のうち、現存する西側の部分を指す。神殿はユダヤ教で最も神聖な建物であった。70年にユダヤ人の反乱がありティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。この時エルサレムは炎上し神殿は破壊され西壁のみが残った(エルサレム攻囲戦)。その遥か後の1967年の第3次中東戦争でイスラエルが神殿の立つエルサレム旧市街地を占拠して、やっとユダヤ教徒はエルサレムへの立ち入りが許されるようになったとの事で、それまでの約1900年間ユダヤ教徒は自由に嘆きの壁に来て祈りを捧げることはできなかったのだ。「嘆き」とは神殿の破壊を嘆き悲しむために残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現している。ここでお祈りするユダヤ人は黒い帽子に黒いスーツ・長い髭を伸ばす超正統派(ハレーディー?)と思われる人達が多かった。皆旧約聖書を片手に真剣にお祈りをしていた。他宗教の旅行者も並んでキッパーを借りて嘆きの壁に触れる事が出来たが、男女は別々だった。嘆きの壁の上はムスリム地区に属し、神殿の丘と呼ばれるかつてのエルサレム神殿の跡で、ここにはイスラム教の聖地アル=アクサ・モスクやイスラーム建築の傑作とされる岩のドームが建っている。岩のドームにはムハンマドが旅立ったという伝説があり、地下には最後の審判の日にすべての魂がここに集結してくるとされる「魂の井戸」がある。
・岩のドーム イスラム教徒は672年にアル=アクサー・モスクを、692年には岩のドームを神殿跡に建て、同地をメッカ、メディーナに次ぐイスラーム教の3番目の聖地とした。この美しい金のドームはイスラム教徒以外は立ち入り禁止で入れなかった。エルサレムの聖地の真ん中にまだイスラム教の聖地やモスクがある事は全く知らなかったが、この聖地の中心を巡ってユダヤ教徒とイスラム教徒との紛争は現在も続いている。イスラエルがこのモスクを取り除きたいと思っていていろいろな動きがあるようだが、今後この推移を注意深く見守りたい。
・地下道 イスラエル王国の3代目(在位紀元前971年~931年)の王ソロモン時代の地下水道を見た。長く続くすれ違うにはやや狭い水道は至る所で補修工事が行われていた。時間が足りず途中で引き返したが、往時の繁栄が偲ばれた。
・オリーブ山 エルサレム旧市街からキドロンの谷を隔てて東にある丘陵。イエスがエルサレム滞在中に最後の夜を過ごし(ルカによる福音書21:37)捕えられる前に弟子たちに最後の祈りを捧げた場所とされる(マタイによる福音書24:3など)。その北の山麓にはゲツセマネの園がある。本当に多くのキリスト教徒が訪れる聖地で旧約聖書のセガリヤ書においても、最後の審判の日に神があらわれ死者がよみがえる場所とされているそうでユダヤ人の聖地でもあり、大混雑していました。
・ヴィア・ドロロ-サ イエスが十字架を背負って総督ピラトの官邸(プラエトリウム)から刑場のあるゴルゴダの丘まで歩いたとされる石畳の道だ。共観福音書では途中でキレネのシモンがイエスに代わって十字架を背負ったと書かれているが、ヨハネによる福音書ではイエス自身が最後まで背負ったことになっているそうだ。ヴィア・ドロローサという名称は、その道中に味わったイエスの苦難を偲んで名付けられており、ヴィア・クルシス(via crucis/十字架の道)とも呼ばれている。ピラトに裁かれ、有罪で鞭打たれ、倒れ、悲しむマリアと出会い、シモンに十字架を担いで貰い、顔を拭いて貰い、又倒れ、婦人に話しかけ、3度目に倒れ、衣服を剥がれ、十字架が立てられ、息を引き取る、といったそれぞれの留(中継点)で足を止めながら、上り勾配の道のりを歩んだ。
・ベツレヘム パレスチナ自治区内(ヨルダン川西岸地区)にある。人口3万人の街だが2000年以降、殆どのキリスト教徒は移住してしまい1%しかいないそうだ。イスラエルの入植地と、2005年より建築を始めた分離壁によって土地を奪われ(市域の15%とも6割以上ともいう)またエルサレムへはイスラエルの検問を経由しなければならない。私達は許可証のあるバスで分離壁の中に入ったが、中はそれまでと一変して貧しい雰囲気が一目瞭然だった。観光バスの駐車料金が6倍位に跳ね上がり高いそうで駐車車両もそれ程多くなかった。それでもパレスチナ人にとってこれが限られた有力な収入源となっているそうだ。この分離壁の行き来を巡って射殺されたり、乗り合いバスの乗客をユダヤ人とアラブ人と分離する話が出ているそうで、一挙に楽しい観光から現実の厳しい争いの一端を眼にし、考え込まざるを得なかった。
・ベツレヘム内にある聖誕教会はルカ福音書によるとヨセフとマリアがベツレヘムに赴き、そこでイエスが生まれた。宿に泊まれず幼いイエスを飼い葉桶に寝かせたが、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたとの事。その後ヘロデ大王の追及から難を逃れガリラヤ湖畔へ移住したとの事だ。ここは2012年にイスラエルの反対に拘わらずパレスチナ自治区最初の世界遺産に選定されたが、キリストの生誕した地の教会がそれまで世界遺産で無かった事の方が不思議です。日本でもクリスマスの日に生誕教会は貧しい地区に取り残された形なので補修もされずかなり傷んでいるが、ようやくパレスチナ側主導で補修への動きが出たと報道されていた。
第9日 聖地エルサレム観光→午後イスタンブール → 第10日 関空へ
・聖墳墓教会 エルサレム旧市街(東イスラエル)にあるキリストの墓とされる場所に建つ教会。ゴルゴダの丘はこの場所にあったとされる。
・万国民の教会とゲッセマネの園 ここから旧市街を望むと中心に岩の(金の)ドームが良く見えた。ここの庭には樹齢2000年の幹が大変太いオリーブの木が多く残っていて樹の好きな私はもっとゆっくりしたい所だったが時間が足りず、沢山写真を撮って来た。
・イスラエル博物館 イザヤ書の死海写本(複製ではなく現物)が地階に展示されていた。4000年前のヘブライ語で書かれているが、今のヘブライ語と殆ど変らないので高校生の学力があれば殆ど読めるという説明を受け、驚嘆した(実際はそれ程では無いとの指摘もあるが)。ヘロデ時代のエルサレムの模型もあるそうだが充分見る時間が無かった。ここは再訪したい所だ。
<イスラエルが大切にしているもの>
周囲をアラブの国々に囲まれ1次~4次の中東戦争を経て現在の国境線となったイスラエルだが、それ以降もパレスチナ問題を抱え、イラク戦争後もシリア内戦、イランの核施設問題もあり国防問題は大変だと思う。その中で必然的に以下の3つが現在のイスラエル政権にとって重要なのだそうだ。
1.食料(と水)
・食料事情
ガリラヤ湖南岸の最初の共同村デガニアというキブツで2泊した。キブツはイスラエル独特の社会実験で歴史上最大の共同体運動のひとつとされ、国内約270か所にあり約10万人の構成員がいる。ロシアから来た初代首相ベングリオンや女性首相メイア等の政治家も輩出した組織だ。現在のキブツは工業やホテルもやるようになり普通の街とあまり変わらないとの事だが、今回宿泊したホテルも簡素で合理的でとても良い雰囲気だった。食事もそこで採れた新鮮な野菜・果物が豊富でガリラヤ湖の魚も出たが調理も良く、大変美味だった(旅行中どこへ行ってもほぼ同様)。イスラエル建国の中心は帝政ロシアを逃れて来たユダヤ系ロシア人で、まず農業から始めたようだ。現在食料は英国や中欧・ロシア等にも輸出され食料自給率はほぼ100%との事だ。日本の食料自給率のあまりの低さと好対照である。自国の農業を軽視し、こんなに低い自給率を更に押し下げる可能性の強いTPPで更に大量栽培・飼育の、農薬等に塗れた食料品輸入拡大に応じようとする日本の官僚や政治家が多いのには本当に呆れ果てる。産直で無農薬(または無農薬に近い)の食材のおいしさを知らない人達が多過ぎるのだ。
・水
ガリラヤ湖は大変美しいが琵琶湖の1/3程度の大きさしかなく、その水が人口720万人程(現地で入植者が増え800万人程に増えていると聞いた)の殆どの人の水源となっているそうでここが生命線なのは分かる。シリアと戦ってゴラン高原を取ったのも水の確保も大きな目的の一つらしい。日本人は水が豊富なのでタダと思っている事を不思議に思ったり羨ましいと思うのも本当に頷けた(最近はまだごく一部だけだが海水の淡水化を実用化しているらしいが)。流入する水量も減り死海の水位低下も続き、紅海から海水を流入させようという古くからのプロジェクトも又実現に向け検討されだしたと話題に上り始めている。
2.核(と軍事)
・核
核拡散防止条約(NPT)には加入していないイスラエルだが核保有国である事は公然の秘密で、ウキペディアでは80発と書かれているが、現地では300発程度と耳にした。7日目のネゲブ砂漠ディモナにネゲブ核研究センターがあるようだが勿論完全非公開なので、その横をバスで通過する際も時速120kmの高速で走り抜けなければならなかった。いずれにせよ欧米とイランとの歴史的和解への動きにも拘わらず、イスラエルはイランの核保有に繋がるウランの濃縮には猛反対で、核施設への先制攻撃も辞さずの姿勢をまだ崩していない。一方米国主導のイラン敵視策が解体に向かっている中で、サウジアラビアとイスラエルとで「イランの倒し方」でなく「米覇権が低下する中で、両国がどうやって国家存続していくか」の話し合いが始まっているようで、いろいろな動きが加速していて目が離せない状況だ。
・その他の軍事関連
ゴラン高原にはシリア軍の、エルサレムに入る途中の道にもアラブ連合軍の戦車が残されて置いてあった。第4次中東戦争で攻め入られた事を忘れない為らしい。この戦いは第3次中東戦争で先制攻撃で勝利し油断したイスラエルにエジプト・リビア・シリア等の連合軍が攻撃をかけ、緒戦はイスラエルが敗れエルサレムも途中まで攻め込まれ危なかった時もあったそうで、軍事強国イスラエルも常勝ではなかった事を初めて知った(その後直ぐ体制を立て直し撃退したが)。現在のイスラエル軍の最新鋭の戦車は5m位の窪地は飛行して超えて走行する驚くべき性能があると聞いた。ネゲブ砂漠では遥か上空をもの凄い轟音で高速飛行するジェット機の飛行機雲を仰ぎ見た。ウィキペディア上でも核以外の化学兵器・生物兵器等も保有していると国際的に信じられているようで、シリア内戦の化学兵器使用もシリアであった事への疑義が最近も又西側の記者からも出ている等、あまり知りたくなくても耳目に届いて来る事が多い。
3.情報
・世界のPCには殆どインテルのCPUチップが入っている(シェアー80%近い)。このCPUチップの開発をしたのがイスラエルのユダヤ人技術者でインテルのイスラエル・ハイファの開発センターで開発されたものだ。コンピューターはこのチップのお陰で「巨大な計算機」から現在我々が手にする手軽な「コンパクトなマシン」に変貌したのだ。又、ナスダックに上場しているイスラエル企業は米国に次いで多い。国を挙げて起業家精神(創造力・活力・大胆さ等)が豊富で起業する若者も多く失敗しても実力があれば再起のチャンスに事欠かない社会でGDPに占める研究開発費の割合は4.5%と世界一大きい。twitterやfacebook等の情報産業の経営陣への関与度合も高そうだ。
・モサドはウキペディアによると「対外諜報活動と特務工作を担当。情報収集、秘密工作(準軍事的な活動および暗殺を含む)および対テロリズム活動、逃亡している元ナチ戦犯やテロリストの捜索などをおこない、その焦点はおもにアラブ国家などの敵対国にむけられ組織の拠点は世界のいたるところに存在する。モサドは、「民間のサービス」という名目でスタッフはすべてイスラエルの徴兵システムの一部としてイスラエル国防軍に採用されるが、軍隊の階級を使用しない。又、それらのうちの多数は士官である。世界各国に在住するユダヤ人の人脈もある」となっている。勿論一般人の私には何の情報もないが、国際情勢に大きな影響を与える事件の背景を考える時に重要な要素である事は間違いなさそうだ。
<あとがき>
この旅行を契機に、その時は判然としなかったが、その後の座学で理解を深めたのは下記2点です。
1.イスラエル人の人種構成と特質
イスラエルの住人はユダヤ人とは限らず、宗教的・文化的・社会的背景の異なる多様な人々が住む国である。ウキペディアでは81%がユダヤ人(半数以上がイスラエル生まれ、他は70余ヶ国からの移住者)、17.3%がアラブ人(キリスト教徒・イスラム教徒)、残りの1.7%がその他の少数派である。ロシアや東欧からの移住者が多い事もあり平均年齢26.9歳と若い人が多く、今でも流入が続きパレスチナ自治区への入植でパレスチナ人のオリーブの木を切る等の紛争が未だに続いている。厳しい政治状況下に置かれている為社会的・宗教的関心、政治思想、経済資力、文化的創造力などについて考え、行動する力が必須である事が国の発展に力強い弾みをつけていると思われる。
2.ユダヤ教徒とシオニストとの意味合いの違い
多数派はロシア系等を中心にしたシオニストのユダヤ人である事は大体承知していたが今回の旅行後に何かひっかかるものがあり調べていたら、極く少数だがシオニズムそのものをユダヤ教の教えと違うとして建国当初から疑念を抱き、厳しく批判している人達がいる事が分かった。超正統派のユダヤ人聖職者達の中には「トーラーの名の下に」ユダヤ人国家イスラエルというのは虚構と批判している人達もいる。欧米等世界中に在住するユダヤ人もイスラエルを全面的に支援する人達だけでなく、シオニズムを形を変えた植民地主義で、その好戦的・不寛容過ぎるアラブ諸国やパレスチナ人への対応には問題があり却ってユダヤ人を窮地に追いやるものと主張している人達もいるのだ。現在も欧米に在住する人達の多くはイスラエルを支持し財政的にも支援しているようだが、一方には戦争に備え続けなくてはならないイスラエルに帰国する意志が乏しいだけでなく、むしろ世界各地で折角築き上げた基盤に対して反感・反発が強まる事を恐れる人達もいるようだ。そもそもユダヤ教ではディアスポラがユダヤ人の長い間の常態であり、少なくとも現在の時点でのシオニズムは宗教上も間違っていると主張しているようだ。
→詳しくはヤコブ・M.ラプキン著(菅野賢治訳「トーラーの名において」等に、イスラエル建国前から現在に至るまでのユダヤ教聖職者達のシオニズムに対する抵抗の歴史が綴られています。
ユダヤ人は歴史上のいきさつもあり金融を生業にして来た人達が多くいて、長けていて国際金融資本の実権を握っているとも言われています。この事は大きなテーマなのでここでは触れませんが、毎日の世界や日本の重要なニュースに関与している事は知れば知るほど分かって来ます。現在の政治・経済・軍事情勢は著しく流動的な時期を迎えており、今後も日々のニュースの背景・内側を確認しその影響力の実態を見極め続け、いずれイスラエルを再訪してユダヤ教聖職者達の考え方や金のドームの状況、パレスチナ自治区の状況等がどう変化していったのかを見たいと考えています。