若い頃の旅行はスキーや海、ランニングが主体だったが神社仏閣も随分行った。最近はもっぱら文化・歴史探訪が中心。特に現代の紛争の中心中東・イスラエルや中国・日本の正しい歴史を知りたい見たいと思っている。戦争に繋がる煽動や偏った愛国心に平和が乱されないように祈りつつ。
(旅行・国内)
ドライブ好きなので、各任地でそこを基点に仕事や観光で主に土日に日本中実にいろいろな所へ行ったものだ。
新潟で18歳まで(毎夏父の故郷佐渡で遊んだ)、東京で4年+2年(スポーツの合宿で軽井沢・白馬岳・立山・山中湖・新居浜等)、名古屋で7年(愛知県全域・志賀高原・飛騨高山・三重)、高知4年(桂浜・仁淀川・四万十川・四国88か所中50数か所・剣山・石鎚山)、堺4年(大台ケ原・吉野・琵琶湖バレー・京都、奈良神社仏閣・十津川・熊野・六甲・大山)上野3年(みなかみ・上野公園・浅草)、博多5年(えびの高原・雲仙普賢岳・霧島・桜島・屋久島・高千穂峡・阿蘇・五木・別府・湯布院・由布岳・唐津・呼子・有田・能古島)仙台3年(蔵王・八甲田・安比・八幡平・雫石・花巻・遠野・栗駒)、大森4年(2年静岡・甲信越・山梨・北陸3県、あとの2年神奈川・千葉担当)。妻が京都6年、札幌4年。
(旅行・海外)
ずっとドメスティックで海外はあまり縁がないと思っていた。初めてが40歳過ぎで韓国。次に米国・メキシコ・カナダ、スイス(マッターホルン)、タヒチ、中国(上海・西安・北京・大連・香港・深圳・アモイ・青島・成都)、マカオ、台湾、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア(バリ島)、モルディブ、スリランカ、オーストリア、ドイツ、フランス、ニュージーランド、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、イギリス、インド、イタリア、トルコ、チュニジア、スペインの28カ国。
大変恵まれた時代に生まれたものだ。まだまだ行っていない所だらけで、円高を生かしてあと少なくとも22カ国合計50カ国は行って見たいと思っているが…体力・金力が続くだろうか。
(スポーツ・昔)
学生時代重量挙げ。インカレ個人戦ミドル級6位が最高成績。名古屋でウエイトトレーニング・スキー。高知でランニング、10km40分程度。福岡でゴルフ(ベスト82)、仙台でスキー2級の上程度。
(スポーツ・現在)
50代でリウマチになりリハビリ中。膝・足首・肘の痛みに耐えながらの軽い散歩が限度ですが、気持ちは復活を夢見ています。
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広州・桂林・陽朔旅行で思う事(善隣友好が大切です)
<欧米日の衰退を隠す、やらせ景気回復>
日米欧主導の時代が曲がり角に来ている。副島隆彦氏の「欧米日やらせの景気回復」によれば、ユーロ圏は米日とも協調してジャブジャブ・マネーを作りだし、そ の結果フランス大手3行等欧州の30行が倒産を免れ、一時的に円安、株高の局面になっていると論じ、投入金額が巨額なので暫くはその効果が続くとしてい る。ドイツまで米国金融工学に騙されていたのでユーロは大きな危機だが、これで乗り切る事が決まったようだ。まだ危機の演出は続くが、この大きな流れは変 わらないだろうが円高・株安が再燃したり、日銀の介入で円安・株高になったり方向性が定まらない不安定な局面が続いており、注視が必要である。
<中国等のBRICSの台頭>
米国1国覇権の時代から、中国との2極時代が始まっているのは確かだ。中国等BRICSの台頭は目覚ましいものがある。しかし日本経済新聞やNHKを始めマ スコミは、米国や官僚の統制により、米国金融の内情の酷さや、米国の貧困大国化や、米国民の統制強化・自由の喪失等には触れず 「日米同盟の深化の重要性」のみを強調するだけだ。IMF等を通じた日米欧の官僚統制経済の強行により衰退を隠し、各国民の負担を増大させて米国債・株価・景気を維持する事に必死である。
一方の極に成長したBRICSの動向について日本の報道はあまりに少なく、しかもマイナスのもののみ選んで誇大に報道していて、マイナスのイメージを植え付ける意図が強過ぎるようだ。正しい、実態を掘り下げた情報が本当に必要な時なのだが。
<分断工作・米国の戦略とマスコミ>
米国と隷従する日本の官僚・政府は中国との尖閣諸島領有を巡る争いを煽ったり、韓国人の多い特別永住者の地方参政権の問題や韓流過多を批判したり、北のミサ イル問題を過大に騒ぎ立てる等、日本と近隣国と争わせるようにあからさまな工作を展開している。マスコミは積極的に動いており、まともなジャーナリズムで はなく、分断工作の首謀者の一員であるように見える。
<米国の戦略の変更>
・中東への関与減
米国はアフガニスタンで2014年末に治安の権限を委譲する。2012年7月から米軍の一部撤退が始まるが、パキスタンとの関係悪化で退路の確保も難しそう だ。今後中東への関与度の後退を余儀なくされている。シリア情勢の日米欧の報道も一面的過ぎ、イラクに大量破壊兵器が無かったように、民衆虐殺を誰がやっ ているのかは疑わしく、真相を見極める必要がある。
イランの核施設への攻撃が決行されるのか?が最大の問題なのだが今はサイバー攻撃を仕掛け核施設空爆以上の戦果をあげようとしているようだ。
・中国包囲網作り
いずれにせよ米国は中国を仮想敵国に見立て包囲網を構築しようと新たな防衛線作りに必死のようだ。野田政権に森本氏を防衛相にするよう指示し、対中国敵視政策を遂行させようとしている。
しかし事は単純でなく、米国債の保持を続けて貰わないと経済が成り立たないので、中国とは裏の繋がりは太いようだ。
米軍の再配置に呼応したと思われる東京都・石原知事の尖閣諸島購入の動きを丹羽駐中国大使は批判したが、政府から撤回させられ、近々交代のようだ。本当は視 野が一面的で挑発的過ぎる東京都が購入する方が問題なのだが。野田首相自身も対米盲従しか考えていないので、このままだと日中関係も難しい局面になってし まう恐れが強い。
<近隣国とは善隣友好関係が一番>
・軍拡や戦争を煽る人達
一般市民にとっては、隣国との密接な友好関係に基ずいた交易や人材の交流による安定した互恵関係が共通の利益なのだ。米国の産軍複合体やそれに連なる人達にとっては、緊張を高めて高額な武器を売却する事が多大な利益に繋がるので危機の演出に必死だ。
更に一番の問題は、米国大銀行達の大赤字の裏帳簿を御破算にする為に戦争を起こそうと企んでいる人達がいる事で、いろいろな策謀を繰り広げており、徐々に緊張が高まりつつある。
・ネットの情報把握と共有で友好促進に繋げよう
幸いにも、今は一般市民でも米国やイスラエル政府の意向・動向がネット上である程度把握出来る時代だ。彼らの意図・行動を監視して暴発させぬよう注意が必要 だ。一方隣国中国の実像を把握する為に出来るだけ自分の眼で各地を見て回り、正しい情報により無益な戦争や軍拡競争に陥る事なく、安心して交易・交流出来 る関係作りが重要である。
<中国の実像に迫り良好な関係作りをしていこう>
今回の旅行で自分で見聞きした最近の中国の実像を纏めてみた。大国中国の僅かな一部分とは思うが、悪意を持って対立を煽る日本の情報空間を通じた中国の姿と実態とは乖離が大きいのが実情と思う。
私達は素直に中国の急速な実力の向上を認めた上で、発展に伴う様々な問題点も把握しながら、対等・親密な両国関係を築いていく事が重要だ。その基盤を築いた上で楽しい民間交流をしていきたいものです。
2.それぞれが美しい街。急速な成長はまだ続いている。
(1)広州・桂林・陽朔旅行で感じた事
<広州=落ち付いた大都会>
・関空から4時間15分の広州は広東省の省都。人口1270万人の中国第三の都市だ。上海や北京より渋い、落ち付きを感じさせる街並みである。
・「食は広州にあり」は本当だった。広東料理だけでなく、四川・北京等多彩な料理が味わえる。
・香港・深圳のほぼ西。深圳も近く、電車で2時間程で香港にも行けるし、マカオも遠くない。
・市内の中心街は銀座の道を少し細くした感じで美しく、通行人は皆かなりお洒落だ。中心街にさりげなく宋・明の時代の発掘された古道があり、気楽に安心して散歩が楽しめる。
・ショッピングモールは香港資本(李兆基の恒基兆業地産集団?)による最新の作りで華麗で広大だった。本当に沢山のブランド店が軒を連ねていて、中国の富豪達用の高額な翡翠・金製品が並べられ圧倒される。眼の保養にはなったが。
・市内の西越博物館には古代の墓・煌びやかな埋葬品があり、一見の価値がある。
<桂林=景観の素晴らしい国際的観光都市>
・広州から飛行機1時間余りで桂林へ。ここも大きく立派な空港だ。
・ホテル(漓江大瀑布飯店)からは漓江の景観が眺望出来る。翌日象鼻山や七星公園を散策した。公園は広大な森で入場料が高いらしく人が少ないので、3頭いるパンダも間近でガラス越しにゆったり見れた。
・近くの両江四湖クルーズでは4つの少数民族の住居を巡り歓迎を受けた。川に点在する少数民族は観光客に文化を見せて暮らしているようだ。
・お目当ての漓江下り(距離83km)は山水画に良く出る景勝地の風景が竹江から陽朔までずっと続く。今回は雨で水量が多く4時間で下ったが、両岸の景観が変化し続け全く見飽きなかった。
・桂林の人口は500万人弱だそうだが観光客が多く、国外から年間500万人も訪れるとの事。国内からも3000万人と言う。空港も立派で欧州からの観光客も沢山いて賑わっていた。
<陽朔=懐かしい風情の桃源郷>
・桂林から陽朔はバスで2時間程。陽朔は人口30万人の小さな県。中心にある西街は西洋人が多い街の意で、国際色豊かでホテルからも近く、民族品のショッピングが楽しかった。
・ 景勝地陽朔に3泊したが、ホテルは5つ星で木材を多用した瀟洒で大きなリゾートホテルだ。部屋のベランダから山水画そのものの風景が見え、沢山の鳥の鳴き 声が聴こえ、眼前を流れる小川に筏舟が行き来し、牛追いの農民もいて、蛙も鳴き、本当に昔懐かしい桃源郷のような所だった。
・すぐ傍から6人乗りの筏に乗って小川を下る。鵜飼も間近で見れた。長良川より大きな魚を何度も飲み込み吐き出していた。暫く川岸を歩くとラクダまでゆったり歩いていた。
・扇子で有名な村の福利鎮見学後、漓江を見るスポット(20元札の図柄にもなっている)の興坪では、日本人の林さんが作った「和平亭」から漓江を眺めたがなかなか乙であった。
・農村は昔と様変わりしてすっかり豊かになったようで、農家の3~4階建ての大きな家並みが点在して続き、用水路も整備が進んでいて、農産物も種類が豊富でおいしいのには驚いた。
・夜は水上歌劇「印象 劉三姐」を観た。漓 江の川と山全体を舞台にして600人が舟や川岸で演じる。北京五輪でも活躍した演出者の光や音声効果が素晴らしく、オーストリアで観た野外オペラにも優る とも劣らないものと言えよう。但し、雨だと川の水量が増え中止になる事が多く、3日泊った最後の日にようやく観る事が出来たのは運が良かった。
3.中国関連の最近の動き
<変化の兆し>
6月から円と元がドルを介さず直接交換出来るようになった。まだ3大銀行位しか活用していないようだが、徐々に貿易業者にも拡がっていくのだろうか。観光客に限れば土産物購入で円は歓迎されるので、もう先行しているのだが。
6月7日、上海協力機構(SCO)加盟国首脳理事会第12回会議(北京サミット)が北京で開催されている。発足して日が浅い国際機構だがこれまでの10年間を順調に歩み、安全保障、経済、人的往来及び文化などの各分野で大きな力を持つようになって来ている。今回はアフガニスタンまでもがオブザーブしたようだ。ロシアのプーチンはG7に参加せずSCO参加を優先した程である。
米国一極覇権の時代は確実に最終局面に入っていると言えるのだが日本のマスコミ報道では全く分からないだろう。
<いくつかの大きな課題>
日中間には先の日華事変・大戦という不幸な時代があり、靖国神社参拝問題や南京事件についての歴史認識問題等を抱えている。中国共産党独裁でチベット問題もあり、伸びていてもまだ新興国で商品の品質は良くないとのイメージも残存している。
何よりも中国軍の力が増大しており、核搭載の潜水艦やミサイルが米軍にとっても大きな脅威になって来ているようだ。米軍が沖縄集中配備から、グアムやフィリ ピン、タイ、ベトナム、豪州等に分散配置を図っているのもこの脅威を避ける為なのか。米軍はもう辺野古移転は考慮外になった筈だが日本政府は必死に繋ぎと めようとしている。県民の意識はますます県外移設で固まっているので不可能だろうが。
尖閣は折角実効支配しているの だから、棚上げして資源の有効活用策を持ち交渉していけば良いのだが。中国漁船衝突事件も尖閣3島東京都買い上げ問題も、日本から(米国の指示で?)わざ わざ喧嘩を売っているように見える。国の対応が不充分ではあり問題提起の意義は認めるが、強がるだけの愚かな行為と思う。
日本が米国の軍事力をあてにして「日米同盟の深化」とかいう美名の下、自衛隊が事実上米軍の指揮下に入るかのような動きが進んでいる。国会でまともな論議が 無くなって事実がどんどん先行しているようだ。集団的自衛権の行使も認めないと言葉では言うが、なし崩しに拡大解釈して米軍との共同軍事演習を海外各地で 始めそうなのは問題である。
いつの間にか中国を仮想敵国であるかのような動きが始まっている。一方で中国との貿易は米国とのそれを金額で上回り、不可欠である事が過小評価され過ぎていると思う。
4.友好・交流の輪を拡げよう
それにも増して日中間の長い歴史・文化の交流を軽視し過ぎていないか。英語が国際的に重要な言語である事は論を待た ないが、米国の支配層の考えである「合理的精神」を突きつめていくと、金が全て、力が全て、自由競争で勝者と敗者がいるのは当たり前という殺伐とした世界 になっていく。中国も幾多の戦乱を経ていてとても一筋縄ではいかないので充分な警戒は必要だが、胡錦濤主席の儒教を土台にした「和階社会」の理念は成功し ているし、一定の信頼は出来る国だと思う。
とにかく米国一辺倒で隷従して中国を敵視する政策は取るべきでない。交流の輪を少しでも拡げていく事が望まれる。成都も青島も厦門も大連も素晴らしい街並みになっている。どこも数時間で行ける本当に寛げる所なのだ。
又豊かになった中国人に沢山来て貰い、日本の良さを体感して欲しい。今回関空に帰る便は満席で多くの中国人が乗っていた。(白いランニングシャツ姿の農民が国際便に乗る時代だ!)
私 は初めて中国へ行った時、平安初期に苦労して海を渡った空海が訪れたという西安の青龍寺へ行って見た。そこで求めた槐樹の数珠を今も大切にしている。今住 みだした所も高野山へ1時間半で行けるので縁を感じている。仏教は昨今は葬式仏教と揶揄されるが、簡単に捨て去る程値打ちの無いものではないと思う。
お茶も漢字もいろいろ中国伝来のものは多い。この歴史的・文化的な太い絆はもっと大切にしていくべきではないだろうか。
地中海クルーズ記:フランス、ミラノ
⑦マルセーユ&エクス・アン・プロヴァンス
【概要】
マ ルセーユは人口82万人でパリに次ぎ2位、都市圏人口ではリヨンに次ぎ3位。近郊に古都エクス・アン・プロヴァンスがありそれらを合わせると135万人。 南フランスの貿易・商業・工業の中心地。地中海最大、欧州第3位の玄関港として120カ国の港と連絡している。TGVでパリには3時間で行けるようになっ た。
マルセーユは商業都市で観光面の魅力は乏しいが、セザンヌの故郷のエクス・アン・プロヴァンスと共に2013年には欧州文化首都(1985年に始まった制度。1年間集中的に各種の文化事業を展開する)になる事が決定済みである。
【歴史】
・ 紀元前600年頃小アジアから来たポカイア人(ギリシャ民族)が築いた植民都市マッサリアに端を発する。ポエニ戦争ではローマ側につきカルタゴと敵対。紀 元前49年からのカエサルとポンペイウスとの内戦ではポンペイウスを支持したが敗北し自治権限を縮小された。3世紀頃キリスト教が齎された。10世紀にプ ロヴァンス伯が支配。
・1481年にフランス王国に併合される。中世は振るわなかったが18世紀には港の交易が盛んに。1720年ペスト流 行もあったが後半には復興した。フランス革命とナポレオン戦争で一時後退したがその後商工業が発展した。第2次世界大戦ではドイツ軍に占領され大きな損害 を受けた。
【感想】
エクスの意味は泉だそうでプロヴァンスの街の至る所に噴水が見受けられた。5世紀 から17世紀までのあらゆる建築様式が集合した旧市街の中心のルシェルム広場の朝市でプロヴァンスの石鹸を購入。セザンヌのアトリエは2階建ての林に抱か れた小さな建物だった(日本人の感覚では十分広いが)。机・椅子・絵の道具が当時のままで感動。ちょっと離れたローブの丘からサン・ビクトワール山を遠望 した。この場所から見た山を1000枚以上(油彩は30枚?)も書き続けたのか!死後に皆世界各地に売れて行き、アトリエに原画が1枚もないのが人気を物 語っているのだが…セザンヌの実家も近くにあり、父は銀行家で裕福だったようだ。
マルセーユに戻り、昼は本場のブイヤベースを味わった後、1ユーロのミニトレインでノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院へ。ローマビザンチン様式の聖堂で高さ46Mの鐘楼の上に黄金のマリア様が。
高台で暫し風に吹かれ港や船を遠望して、又ミニトレインでスリルを味わいながら港に向かった。
⑧ミラノ
【概要】
イタリア・ロンバルディー州の州都。稚内とほぼ同緯度だが比較的温暖。イタリア第2位、北部イタリア最大の都市で人口130万人、近郊を含む都市圏は434万人とローマを凌ぎイタリア最大で、商工業・金融の中心。観光地としても名高い。
ミラノ・コレクションで知られるように古くから服飾・繊維等ファッション関連産業が盛んだが、近年は航空・自動車・精密機器工業も発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成。
【歴史】
紀元前600年のケルト人の町が元。前222年にローマが征服しローマ帝国の元で繁栄。
4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代は西ローマ帝国皇帝の宮殿のある首都に。→450年頃フン族、539年ゴート族に破壊されたが8世紀末再び繁栄を始める。
中世を通じミラノは大司教に統治されたが、封建貴族は独立性をある程度保ちながら大司教の世俗的支配から脱していった。 →東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルド王国の時代を過ぎ、
11世紀には富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と東ローマ帝国からの独立を果たした。
1162年、神聖ローマ帝国のフリードリッヒ1世の軍隊に破壊されたがすぐ復興し、ロンバルディア同盟を結成、1176年にはフリードリッヒ1世を打ち破り新しい繁栄の時代に。
中世後期とルネッサンス時代はヴィスコンティ家とスフォルツア家の公国に。
1277年ヴィスコンティ家が領主デラ・トレ家から統治権を奪い1447年まで支配。特に初代ミラノ公ジャン・ガレアッツオの時代は黄金時代であった。
1450年に軍人フランチェスコ・スフォルツアが統治者に。その息子ルドビコは学芸の保護に熱心でレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに招いた。し かし1500年にフランス軍が占領、一旦ミラノを去るが再訪、ミラノ派と呼ばれる画派を生んだ。スフォルツア家はフランス・スイス・オーストリアに操られ ながらも支配を続け、1535年血筋が途絶えるとスペインの統治下に。18世紀のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によりオーストリア・ ハプスブルグ家に帰属。
ナポレオンは1796年オーストリア人を追出しティザルピナ共和国の首都に→1815年ロンバルト=ヴェネト王国でオーストリアの手に戻るがイタリア抵抗運動の中心地となり1848年オーストリア人を追放。→1859年フランスの支援でサルディーニャ王国がミラノを解放。
1861年イタリア王国に加わり発展。
第2次世界大戦では連合国に激しい爆撃を受けたが戦後復興。戦後はモダン・デザインの発信地として国際デザイン美術展のミラノ・トリエンナーレが開催されている。
【感想】
ジェノバでスプレンディダ号に別れを告げ、午後ミラノ見学。ゴシック様式の大聖堂(ドウオモ)は天を突くような尖塔が135、ひときわ高い108mの大尖塔には金色のマリア像が見えた。
1386年に着工し正面ファイザードが完成したのが1813年、建設と修復がが同時に行われて来た建築である。エレベーターで途中まで上がり更に苦労して階段を上り屋根の上から尖塔を間近に見たり街を見下したりしたので忘れられない。
近くのヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア(アーケード)に行き、牛の絵のモザイクタイルの上を左足の踵で一回りすると願い事が叶うを得れるという所で行列に並び一回り。
最後にスカラ座前で再訪を期し、レオナルド・ダ・ヴィンチの記念像(1872年製)を撮影しミラノの短い滞在に別れを告げた。最後の晩餐の絵は見れずじまいであった。
地中海クルーズ記:スペイン
⑤マジョルカ島(スペイン)
【概要】
今は西地中海に浮かぶバイレアス諸島の州都。人口約40万人だが夏は倍に膨れ上がるとの事。観光はベルベル城と大聖堂とデパート巡りであった。
【歴史】
13~14 世紀、スペイン北東部の国アラゴンの征服王・ハイメ1世が1229年からイスラム支配下のマジョルカ島に侵攻。1276年死去の際ハイメ(ジャウメ)2世 に継承。兄のアラゴン王ペドロ3世と対立し、フランス王フィリップ3世・ローマ教皇フィリップ3世と連合し闘う等を経て1311年ジャウメ2世死去後財政 危機に陥り1349年リュクマヨールの闘いに破れ滅亡、スペインのアラゴン王国に併合された。
【感想】
そ のハイメ2世の居城としてスタートしたベルベル城。ベルベルは見晴らしの良いと言う意味らしい。小高い丘からパルマの街、ヨットが沢山繋留されているハー バーが良く見えた。近くにある大聖堂は1230年に建造開始、1601年にやっと完成したそうだ。カタルーニャ・ゴシックの傑作で20世紀の改修はガウ ディも係わったらしいが午後2時に着きデパート買い物も組まれた短い時間での慌ただしい観光だったので、この旅行で唯一不満の残った1日だった。
最後に現地ガイドさんが、日本人が120名位しかいないので移住してくれる人はいないだろうかと寂しそうに言っていたのが印象的であった。いい所ですよ。
⑥バルセロナ
【概要】
スペイン・カタルーニャ州の州都。人口160万人だが近郊を入れると420万人。14世紀に建設された城塞を起源とする旧市街と1859年の大拡張された碁盤の目のような新市街からなる。1992年のオリンピック開催地。
【歴史】
伝説ではハンニバルの父ハミルカル・バルカがカルタゴ人植民都市であるバルチーノを建設したと言う。後にローマ人がカストロム(ローマ軍の宿営地)に作り替 えた。5世紀はゲルマン系西ゴート王国(415年~711年)が支配。476年に西ローマ帝国が滅亡するとフランク王国と覇権争い。621年イベリア半島 をほぼ制圧したが711年イスラムのウマイヤ朝に征服された。
801年フランク王国の辺境領に組み込まれたが自立を始めカタルーニャ君主国 を確立し、985年イスラムのマンスールの包囲を撃退。その後アラゴン王国は拡大しアテネまで地中海を支配するが、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合 とカスティーリャ王国で統一王朝が出来るとスペインの中心はマドリードに移行していった。1714年スペイン継承戦争で再び荒廃。フェリペ5世は反乱した バルセロナを処罰した。
19世紀産業革命後「大拡張計画」が採用され中世の城壁は取り壊された。20世紀初頭にカタルーニャ人が自治と文化的表現の自由を求めて騒乱を起こしバルセロナの復活が明確になった。
この時のモデルニスモ(新芸術運動)を産業ブルジョワジー(グエル=ガウディのスポンサー)が支援した。
ス ペイン内戦(1936年~1939年)バルセロナは無政府主義運動の拠点に。しかしフランコ軍に侵略された以降数十年間は恐怖政治とカタルーニャ語の使用 を禁じられる等の抑圧が続いた。この内戦の事は「誰がために鐘がなる」や「ゲルニカ」位しか知らないが、いろんな要素が入り乱れ骨肉も別れて争う激しい闘 いだった事だけは間違いないようだ。
1975年以降自治政府も復活し「カタルーニャ」の独自性を追及する時代~現在に至っている。
バルセロナの人々はケチで働き者と言われスペインのGDPの1/4を稼いでいて普通のスペイン人とは違うようだ。
【感想】
ほ ぼ終日観光出来た。アントニオ・ガウディの代表作サグラダ・ファミリア(聖家族教会)は内部も、特に外観は見た事が無い芸術性が感じられ素晴らしかった。 生誕の門、受難の門も工事が続けられていて何回も訪れた人達は口々に前はここまで出来ていなかった、又来て良かったと言っていた。
バルセロナの街と地中海を見下ろす高台のグエル公園の散策も実に楽しくガウディのカサバトリョカサミラは一度ご覧下さいとしか言えない空間でした。
昼は海辺の半野外レストランでパエリアとムール貝。子イカのフリッター等素朴な味は格別です。
午後のカタルーニャ広場にはいろんなお土産店や、奥の方には青果物・魚市場もあり多くの国から来た観光客達も交え大混雑でした。同じグループの常連の方は「ここのカラスミがおいしいので毎回買って帰る」のだそうです。バルセロナはとにかく楽しい再訪したい街でした。
夜はフォーマル・ナイトで船長主催パーティーで挨拶やアトラクションで盛り上がりました。
地中海クルーズ記:チュニジア
④チュニス(チュニジアの州都)
【概要】
チュニジア共和国はアフリカ世界・地中海世界・アラブ世界の一員。アルジェリアとリビアに挟まれており現在はこの両国とモーリタニア・モロッコと5カ国で1989年に経済協力機構であるアラブ・マグレブ連合を作っている。
【歴史】
古代フェニキア人が交易拠点として移住し、紀元前814年カルタゴ建国、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力・ローマとシチリア島の覇権を巡って衝突。
・紀元前264年に第一次ポエニ戦争。カルタゴは敗れシチリアを失い、スペインに拠点を伸ばす。
・第二次ポエニ戦争では名将ハンニバル・バルカ将軍が大活躍。象を引連れピレネーを越えてイタリアの北からローマを攻撃しローマを滅亡寸前まで追いやったが、スキピオに本国を攻略されて撤収。
・第三次ポエニ戦争で完全敗北し紀元前146年に滅亡し、チュニジアはリビアと共にローマの属州となりキリスト教も伝来。
そ の後西ローマ帝国の管区、ゲルマン系ヴァンダル人のヴァンダル王国→534年東ローマ帝国→アラブ人の侵入。アッバース朝カリフに臣従したアグラブ王朝・ ファーティマ朝・ズイール朝・ムワッヒド朝と続き、1229年ハフス朝。「歴史序説」を著したイブン・ハルドウーンが活躍。
→1574年オスマン帝国に→フサイン朝
→1837年アフメド・サダク・ベイがアフリカ初の立憲君主になり、近代化・西欧化を図る。
1861年イスラム世界となり1864年憲法停止。西欧化挫折→1878年フランスに宗主権・フランス侵攻・1883年フランスの保護領に
→1907年青年チュニジア党→憲政党→新憲政党
→1956年アル・アミール国王を条件に独立。
→1957年チュニジア共和国成立(王政廃止、大統領制)。初代大統領にブルギーバ。
→1974年カダフィーのリビアと合邦したがすぐに崩壊。
→1987年無血革命でベンアリが大統領に。→1991年湾岸戦争ではサダム・フセインを支持。
→2010年「ジャスミン革命」でファド・メバザヘが暫定大統領に。
パレスチナ問題では第3次、第4次と僅かながらアラブ側で派兵。1982年PLO本部が2年のみ移転した事がある。イスラエルを承認しているがガザ紛争では非難している。イスラム教スンニ派が98%で、アラブで最も女性の地位が高い国になっている。
【感想】
紀 元前814年テュロス(今のレバノン)の女王エリッサが辿り着き原住民に分けて貰った土地。カルタゴ遺跡から今でもカルタゴ時代の軍港・商業港がはっきり と分かれていた事が眺望で確認出来た。ここからハンニバルがローマとの戦いに出陣して行ったと思うと感慨で胸が熱くなる場所だ。その後のローマ統治時代の バジリカ跡、アントニヌスの浴場もすぐ隣にあり見物出来た。
そこの隣の高台に大統領邸がありその方向の撮影は厳禁 だった。メバザ暫定大統領の政権の運営状況は知らないが、ベンアリ追放のジャスミン革命はウィキリークスやSNS・Twitter等による安上がりな政府 転覆の画策によるものと言って良いだろう。本当はベンアリの悪政というよりも米国金融システムの崩壊を阻止する為にFRB・米産軍複合体・ジョージ・ソロ ス達による石油独占、フリー・エネルギー移行阻止で石油高演出の意味合いが多いソフトな軍事作戦の初戦ではなかったかと推測している。
そ こから海岸線を戻りフラミンゴの群れを遠くに観ながらチュニス市街に。まだデモ対策の有刺鉄線が残っていたが道の両側で多くの人達が集ってお茶を楽しんで いた。まだ失業中の人も多くたむろしているように見受けられた。出港時間が迫り地元の土産物商店街でショッピングする時間が僅かしかなく小物をじっくり選 べなかったのは残念であった。
地中海クルーズ記:イタリア
<始めに>
「MSCスプレンディダ号で行く浴槽付きデラックス・スイート客室で巡る煌きの地中海クルーズ11日間」を堪能して来た。
訪問先は皆初めての所なので,
【概要】で基礎的知識を確認し、【歴史】で史跡の歴史的背景、【感想】で最も印象的だった事を記録に留め今の日本で生きる自分の立ち位置の確認と言動への参考にしたいと考えている。
<行程>
成田→コペンハーゲン経由ミラノ→ジェノバ→ナポリ(ポンペイ遺跡)→シチリア島パレルモ→チュニス(カルタゴ)→マジョルカ島→バルセロナ→マルセイユ(エクス・アン・プロヴァンス)→ジェノバ→ミラノ→成田のコース。
<私の欧州旅行歴>
・ 私の初めての欧州旅行は8年前元気な時にスイスのツェルマット(マッターホルンの麓の街)に泊り標高3800mのクラインマッターホルンから北イタリア・ チュルビニアに滑って降りた時であった(その際パリにも立ち寄った)。→今回その方向をミラノ近郊から遠望出来て感慨ひとしお。
・次は06年モーツアルト生誕200年祭。オーストリア(ウイーン・ザルツブルグ)で全くの素人が本場のオペラを3つ堪能した。特にイドメネオのマグダレナ・コジェナーさんのファンに。
・3回目はEUに注目。07年ルクセンブルグ・ベルギー・オランダ・ドイツ(フランクフルトのみ)を回り、EU本部やECBを見た。域内を縦横に行き交う交 通量の多さに欧州の繁栄・統一の成果を実感。(振り返ればその時がユーロのピーク。今日のユーロ・欧州の危機は想像出来なかった→ただし昨今の日米マスコ ミが連日連呼するユーロ危機は存在はするが米国の財政危機隠しと表裏一体だと理解している)。ナポレオンの破れたワ-テルローの闘いの戦場跡も行った。ロ スチャイルドが情報網を生かして巨財を得て以来欧米国際金融資本の中核にのし上がる契機となった重要な場所だ。
・4 回目の08年はイギリス周遊。エジンバラ等にたなびくスコットランドの旗が印象的。イギリスとスコットランドの古戦場も印象深い場所だった。又、イギリス は国中、田舎までやたら「For Rent」の家の多いのにびっくり。大不況は始まっていたのだ。ロンドンのテームズ河畔にあるヘッジファンド界の雄マ ン・インべストメント社も訪問したが直後にリーマンショックが到来した。以降はマン社も大苦戦が続く。
ロンドン塔にあった、世界最大と言われる英国王室所蔵のダイヤモンド、コヒヌールの耀きに見とれる。東インド会社がビクトリア女王に贈ったもので、今はインドが英国に返還を求めている宝石だ。
<その後体調不良>
去 年ようやく少し回復したので近場の中国旅行(上海万博・大連・厦門)の3回で史跡を訪ね身体を慣らしていた。今春かなり復活した(と勝手に思っている)手始めに大震災後にトルコを周遊し、その自然・歴史・食料・人情・政治の独立性に感嘆。真の豊かさはGDPや工業化の程度だけでは測れないと強く実感し「先 進国」という言葉に大きな疑問を抱いていたが、それが確信に変わりつつある。
<旅行選定と結果>
体調がまだ万全でないので移動が不要で楽なクルーズを今回は選択。まだ行った事のないイタリアの中心都市やチュニジア・スペイン・南仏を巡れる事が出来るこのコースを選んだ。
出 発前はチュニジアのジャスミン革命やフランスのマルクール原発爆発事故で気を揉んだが、幸い予定通りの航海で特段問題もなく、闘い続きの地中海の歴史の一 端や有名な遺跡の持つ見る人を圧倒する力、イスラムと部分融合したキリスト教会の美しさ、今回は観賞出来なかった有名なミラノ・スカラ座やシチリア・マッ シモ劇場の存在感、各地の賑わう市場等を観賞・実感出来た素晴らしい旅となった。
<見どころ満載&豪華・快適さ満喫>
①ジェノバ
【概要】
イタリア最大の貿易港ではあるが、人口60万人(周辺含め90万人)の落ちついた街である。
ウォルター・P・ウェッブは「コロンブスとヴァスコ・ダ・ガマ以来の近代史とは、ヨーロッパによる北アメリカの開発による超長期ブーム」だと指摘している。カール5世の抱いたキリスト教世界帝国建設の夢が敗れた(利子率が低迷する時代)後に訪れた「ジェノバの世紀」(1557年~1627年)を築いたジェノバはその近代史の「海の時代」が始まる中核となった歴史上大変重要な都市である。数百年後その「海の時代」も限界に来て起きたリーマン・ショックの重大性を歴史上の大きな節目の到来(再び利子率が低迷する時代に突入)と捉える必要がある。今度は「海の時代」から再び「陸の時代」に転換していく時代を迎えているのだ。
【歴史】
紀元前6世紀頃から人類が居住。ローマ時代には天然の良港として海運業や軍港として発展した。1100年頃より自治都市となりジェノバ共和国として発展。アマルフィ・ベネッツイア・ピサと共に海洋国家として栄えた。
16世紀には欧州金融を支配し、商工業も栄え重要な軍港であった。黒海貿易を独占し、クリミア半島南岸諸都市・コンスタンティノポリスの金閣湾北部・イベリア半島諸都市に植民地や商館を築き、ベネッツィアやオスマン帝国と覇権を争った。
そ の後1797年ナポレオン・ボナパルトのフランス軍に侵攻され属国(リグリア共和国)に、1805年にはフランスに併合され、ナポレオン失脚後もウイーン 議定書でサルデーニヤ王国に編入され11861年のイタリア統一に至る。→いろいろな興亡があったので簡単には頭に入りにくいが、春にトルコに行っていた ので少しだけ繋がりが理解し易かった。
【感想】
16世紀の世界の中心と言って良い金融街の建物群が残っている一角があり、趣深い石畳や建築物の表示の渋さ、名器ストラスバリウスのある家等もさりげなく残り、坂道の建物の合間から見える港が往時の繁栄を偲ばせ渋く印象的な旧市街であった。
中心部のガルバルディ通りの名は19世紀にイタリアを統一した軍事家の名前なのでイタリア人で知らぬ人はいないとの事。そこにコロンブスの居住したという家も見る事が出来た。
尚、2001年にここでG8が開催された時はグローバリゼーションへの抗議行動で話題を呼んだらしい。その近代の欧米支配発祥の地とも言えるジェノバで起こった事は皮肉と言うか、現代イタリア人の本能が発達していて別の道を求めているのか。
②-1 ナポリ
【概要】
人口約100万人。世界三大夜景とか「ナポリを見てから死ね」と言われる程風光明媚な土地。輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々のイメージの元。
【歴史】
紀元前6世紀に古代ギリシャ人(アテネ人)により建設されたネアポリス(新しいポリス)がナポリの語源。長くローマ帝国の支配下だったが476年のローマ帝 国滅亡後流動的に。6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世がイタリア再征服。ビザンツ帝国の属州となり、660年ビザンツ系の公国に。
11世紀にはノルマン人が到来シチリア王国を建国し、1140年ナポリ公国もノルマン人の支配下に。
12 世紀は神聖ローマ帝国の支配下に。その後も、シチリア王国→フランス・ヴァロワ王朝→スペインに。1707年には、オーストリア・ハプスブルグ家→スペイ ン王子がナポリ王カルロス7世となり、その後ナポレオン・ボナパルトの兄ジョセフ等目まぐるしく支配者が変わっている。
1860年にジュゼッペ・ガリバルディに征服され、翌年イタリア王国に併合された。
1995年、世界遺産(文化遺産)「ナポリ歴史地区」に。
【感想】
サンタルチア港に入港。本当に美しい!ヌオヴォ城、卵城を見てボンペイへ。ナポリの問題のゴミはチョットだけ見ましたが観光区域はキレイで大きな問題ではないように思えたが…。出港の時も名残惜しく美しい港に見とれてずっと眺めていました。
②-2 ポンペイ
【概要】
世界遺産。79年のヴェスビオ火山噴火の火砕流で地中に。
18世紀発掘開始。噴火時はローマ人の余暇地として栄え人口約2万人。散策したローマ時代の街フォロは、大理石の柱に花・鳥・動物のレリーフ、肉・魚・パン屋・居酒屋跡、ローマ時代の浴場(内部がとても綺麗)等も残存。噴火の際溶けた被災者の遺体を復元した石膏像もある。
【歴史】
紀元前89年反ローマ側に加わったが征服され周辺のカンパニア諸都市と共にローマの植民地になっていた。ワイン醸造が主産業だったらしい。
【感想】
ポンペイ遺跡から20Km離れたヴェスビオ火山がくっきりと見える。有名過ぎる遺跡だが本当に2千年前の往時の繁栄を偲ぶ事が出来る、多くの人が引き付けられるのが納得のいく所だった。歩いたのは一部のみだが広大で快適で、時空を超えたような不思議な感覚を味わえる空間だった。
③パレルモ
【概要】
シチリア島の州都。独自な国際色豊かな文化を生みだした、中世シチリア王国の古都。
【歴史】
紀元前264年~241年の第一次ポエニ戦争で、カルタゴからローマの支配下に。(313年コンスタンチノポリスに首都を移す。その後395年東西ローマ帝国に分裂。476年のゲルマン人の侵入で)西ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国領となった。
9世紀にはイスラム勢力が侵入、965年陥落しシチリア全島がイスラム支配下に。パレルモは30万人、モスクも300余、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して中世ヨーロッパには見られぬ繁栄を極めた。
11世紀はノルマン・シチリア王国、神聖ローマ帝国、13世紀に仏アンジュー家に征服されるが反乱でナポリへ追い出し、スペインのアラゴン家支配下に。1479年以降スペイン副王が駐在。
スペイン継承戦争で一時オーストリアに渡るが1734年スペイン・ブルボン家カルロスがナポリと共に征服、王宮をナポリに。ナポレオンの侵攻で一時パレルモに逃れるがウイーン条約体制で両シチリア王国の王宮は再びナポリに。1860年イタリア王国に併合される。
第2次世界大戦で連合国軍がシチリア上陸作戦を行い爆撃で破壊された。近年、大聖堂、ノルマン王宮跡、教会等旧市街が再生・保存されている。
【感想】
高台の街モンレアーレも階段を上り大聖堂に。12世紀にノルマン・アラブ様式で建立。内部は旧約・新約聖書の場面が黄金のモザイクで描かれキリストのモザイクも圧巻だった。ティレニア海も展望し両側のショップも楽しめた。午後は市内観光。マッシモ劇場はゴッドファーザーも撮影されたヨーロッパ屈指の大劇場だが中に入れず残念。いずれオペラを観に来たいものだ。
トルコに学ぶ
<始めに>
今年4月初旬に11日間のトルコ旅行に行って来た。それまでトルコの事はあまり何も知らず庄野真代の「飛んでイスタンプール」位しか思いつかなかったが、
①西洋と東洋の狭間で燦々たる歴史を持ち、現在は親欧米国としてNATO、欧州評議会等に加盟している。欧州と中東のイスラム諸国との仲を取り持ち、国際的に存在感を深めている国である事。
②イスラム教徒が99%のお国柄で、イスラムの雰囲気に触れてみたい事。
③料理も世界三大料理で美味と聞いている事。
等があり旅行先に選んだ。成田→アタチュルク国際空港迄トルコ航空で12時間で行ける国だった。
<長く深い歴史の宝庫。活気溢れる誇り高き国だった!>
イスタンプールとイズミール、エフェソス遺跡、パムッカレ、カッパドキアを巡った。
【イスタンプール】
ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側に分かれている1400万人の都市。ビザンチン帝国時代はコンスタンティノポリス、その後オスマン帝国の首都として繁栄を続けた。欧州側は金角湾を挟んで旧市街と新市街に分かれている。
この見所の多い街の中でも圧巻はブルーモスク(ス ルタン・アフメット・ジャミィ)と呼ばれるイスラム教寺院だ。天井の高いドームの内部装飾の青いタイルの美しさは息を飲む。ここは現役の寺院で多くのイス ラム教徒がメッカの方角に向けて参拝している中、観光客も受け入れてくれているのだ。(バリ島では外部からの撮影も許されなかったが)又この寺院は6本の ミナレット(尖塔)を持つのでも有名。(通常は4本で、他に6本あるのは聖地メッカだけだそうだ)
地下宮殿の貯水池はビザンチンからオスマン朝にかけて作られたもの。ギリシャ・ローマの遺跡から運んだ柱を使っている。ボスポラス海峡クルーズを楽しみ、トルコが原産のチューリップの公園も散歩出来た。(オランダより綺麗だった)グラントバザールで買い物(値引き交渉も楽しい)し、夜はベリーダンスを楽しんだ。
最終日アヤソフィアへ。もとはキリスト教の寺院だったが1453年コンスタンティノープル陥落とともにイスラム教の寺院に作り替えられた寺院。2階にキリスト教のフレスコ画が残されていた。(完全に消してしまわない事に興味を抱く)最後にオスマン朝のサルタンの居城トプカプ宮殿へ。ハーレム跡と、宝物殿の49個のダイヤモンドで囲まれた86カラットのダイヤモンドは見物であった。
【エフェソス】
紀元前11世紀にイオニア人が作り約10万人が暮らしていた都市の遺跡。当時の議会でもあった音楽堂(ソクラテスも演説した?)等目抜き通りを歩きタイムスリップを味わった。近くに旧約聖書にも描かれているという“聖母マリアの家”へ。
【パムッカレ(緑の城)】
広大な階段状の石灰棚で青い水が美しく眺望も素晴らしい。BC190年頃はヒエラポリスという街があったとの事。
【カッパドキア】
TV・ 絵ハガキ等で見た事があったが、巨大な1枚岩の城塞や奇岩群は数もスケールも行って実感して欲しい。奇岩の洞窟の中に作ったホテルにビックリしたが良いホ テルだった。別の洞窟住居に今も暮らす夫婦にお茶を頂いたり、BC400年頃キリスト教徒約2万人が暮らしたカイマクルという地下都市を尋ねたり。興味は 尽きなかった。
現在は原発もなく(計画はあるようだが)、周囲を黒海・マルマラ海・エーゲ海に囲まれ海の幸も豊富。土地も広大で麦・野菜・果物・オリーブに加え米まで取れる。収入もそこそこで本当に暮らしやすそうな魅力的な国であった。
<政治>
【建国の英雄ケマル・アタチュルク】
・ 1914~18年の第一次世界大戦中にオスマン帝国は中央同盟側で参戦。首都イスタンプールの喉元の街ゲリボルやアナファルタルに進行した英仏軍を食い止 め「アナファルタルの英雄」と名声を得る。その後も英連邦軍に抵抗を続けたが1918年10月末連合国とオスマン帝国は休戦協定を締結した。
・1919年連合軍の分割占領に反対運動がアナトリアで起きた際、反占領抵抗運動の指導者に。
5月19日、港町サムソンに上陸した日をトルコ共和国開放戦争開始の記念日としている。
・1920年アンカラで大国民議会を開催。議長として革命政権へまとめあげていった。西方からのギリシャ軍をサカリヤ川の闘いで撃退。
・1922年イズミールを奪還。国民議会でスルタン制廃止。
・1923年10月29日トルコ共和国初代大統領に就任。大統領暗殺未遂事件後、反対派一掃の為共和人民党の一党独裁体制を樹立。憲法からイスラムを国教と定める条文を削除。トルコ語の表記もアラビア文字を廃止しラテン文字に。
【ケマル主義=世俗主義・民族主義・共和主義】
トルコ共和国の基本路線。アタチュルクは成功した正しい独裁者として今も国父としてトルコ国民の深い敬愛を受け続けていて、像や廟、通りの名前、トルコリラの肖像等、行き過ぎた神格化と批判も出る位である。現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。
【エルドリアン首相】
2003年より25人目の59~61代首相。公正発展党。
昨 年5月パレスチナのガザ地区に支援物資を運ぼうとしていた船がイスラエルに捕えられトルコの活動家が9人死亡した件でイスラエルが謝罪しない為今月イスラ エル大使を国外追放した。又13日カイロでのアラブ連盟の会議で演説し、「イスラエルはその攻撃的姿勢で孤立するだろう」と非難している。
一方、中国にもトルコ系イスラム教徒である新疆・ウイグルでの騒乱に同情し「同化政策を止めるよう中国政府に求める」と申し入れている。
EUへの加盟交渉は始まったばかりで停滞している。米国の中東政策への反感もあり民族感情が高まりつつある。ただ国内のクルド人への人権抑圧問題も抱えており他国の人権問題への介入は微妙な立場にある。
この国の政治的立場は本当に面白く全く眼が離せないが、民族自立の面では日本と違い羨ましい。
日本とは対照的で、爪の垢を煎じて飲みたい位である。
<宗教>
【何故イスラム関心を抱いたか】
勿論、私も普通の日本人なのでイスラム教について知識も無く、縁もゆかりもな かった。ただ外国に行くとイスラム教の存在が大きい国も多い。最初はバリ島でイスラム教寺院の外部からのカメラ撮影を禁止された事に始まる。その後モルジ ブやマレーシアで接したイスラムの若者達は皆生き生きした優しい人達が多かった。又インドのカリカットでは礼拝の声が街中に響き妙に落ち着く感覚に捉われ た。その後中国の厦門でも泉州でもイスラム寺院が多いのにも驚いたものだ。マルコポーロより先に大航海した中国の鄭和はイスラムだったとも聞いた。
2001年の同時多発テロ以降、十字軍の話が持ち出されたりしてイスラムが敵でテロリストが多いという話には何となく違和感を持っていた。イラク戦争から10年、アフガニスタンも膠着から部分撤退の流れの中でこの戦争は米国のいうシナリオ通りで捉えていては一面的過ぎ、相手国やイスラムの言い分もキチンと把握しないといけないと考えるようになっていた。
【小室直樹著日本人のためのイスラム原論】
この著作は文句なしに多くの日本人に読んで貰いたい。「一神教の論理」を知らずして現大世界を語るなかれ!から始まり、眼から鱗の話が満載だ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも一神教であるが、イスラム教とキリスト教とは同じ一神教でも天地雲壌の違いがあるという。
イスラムでは、宗教とは法である。…法とは神との契約である。神との契約は宗教の戒律であり、社会の規範であり、国の法律である。この四つがまったく一致するのが宗教の理想であり、イスラム教はまさにそのとおりである。…
イスラムでは教えのエッセンスが「法を守れ」に縮約され、理解を絶するような教義は、一つもない。誰にも至極分かり易い…
一 度通読しただけだからキチンと語る事は出来ないが、キリスト教の原罪論およびイエスの贖罪による人間の救済、三位一体説、予定説、神の国マリア…と言われ てもピンと来ない。しかしイスラムの五行「五つの柱」は分かり易い。第一が信仰告白、第二が礼拝、第三が喜捨、第四が断食、最後が巡礼だそうだ。皆割合簡 単に出来そうである。
そしてどうやらこの五行はそれほど厳格過ぎるものではないようなのだ。例えば断食は全信徒の義務であるが、妊婦や子 供、或いは病人等は断食などしなくても、ちっとも罪の意識におびえる必要もまければ、憚ることもない。明確に定められた例外規定に従っていれば、規範を 破った事にならないのである。…この合法的例外をいろいろ聞くと実に納得のいく事が多いのに驚くのだ。
損害保険会社 で38年間勤めて来た私は資本主義の長所と短所を一応骨の髄まで沁み渡らせて来たと思う。2001年になって以来、いわゆる新自由主義に大きな違和感を抱 いてその問題点をささやかに指摘して来たが、その矛盾が極大に近付いた今、このイスラムの教えはとても大切な教えであると感じている。
<最後に>
勿論63歳にもなって無宗教の日本人で過ごして来た私がこれからイスラムに入信する事はあり得ないが、凄く共感した上記小室直樹著の次の言葉で締めくくりたい。
現代日本の病根は「無宗教病」にあり
イスラムを知る者は祝福される
世界の宗教を理解するからである
世界そのものを知るからである
以上